魚姫の国から
――デンマーク教育事情
第2回 コペンハーゲンの人魚姫の像

フォルケホイスコーレで学ぶ


子どもと教育(あゆみ出版発行)
1998年5月号掲載

アスコウホイスコーレ

定義できないのが特徴?

フォルケホイスコーレがどういうものか、説明するのはむずかしい。国民高等学校、民衆大学などと訳されるが、どちらの訳もしっくりこない。かんたんに定義できないところが最大の特徴ではないか、という気がする。なにしろ、カリキュラムも、教育方針も、宗教的、政治的立場も千差万別。規定がない。それでいて、フォルケホイスコーレ(デンマーク人はたんにホイスコーレと言う場合が多い)ということばにはある一定の雰囲気がある。

フォルケホイスコーレの生みの親はグロントヴィ(1783〜1872)。北欧古典文学研究者、神学者、政治家、詩人、讃美歌作詞家、さらに教育思想家として大きな業績を残した。近現代のデンマーク社会を考えるときに欠かすことのできない人物だ。

ラテン語を学んだ少数のエリートが社会を牛耳っていた19世紀初め、かれは、真の民主主義社会の実現のためには、人口の大部分を占める農民の教育が重要であると説いた。当時のラテン語学校で行われていたつめこみ式の暗記教育、記憶の確認にすぎない試験、上から下への一方向の教授法を否定し、ふだんの話しことばでともに語り合い、互いに影響し合うなかで自分自身に目覚めていく「生のための学校」を 提唱した。

その考えに賛同した人々が、おもにに農民の若者のために各地に作ったのがフォルケホイスコーレだ。最初のフォルケホイスコーレができたのは、1844年。1890年までには75校が全土に作られた。当時、20代の若者の約1割がフォルケホイスコーレの教育を経験したという。

この150年でデンマークは農業国から工業国へと変わり、フォルケホイスコーレも時代とともに変化した。それでも、さまざまな人が生活をともにし、対話をとおして授業をすすめていくところ、試験がないところは変わっていない。

アスコウ・ホイスコーレでは

1995年のアスコウホイスコーレの夏コースには、およそ70人の生徒が集まった。最年少はリトアニアから来た18歳の女の子。最年長は、89歳のおばあちゃまだった。みな、広い敷地に点在する8つの「家」−寮に別れて住む。私たちの「家」の名は「ミッドゴード」。北欧神話で人間界を指す言葉だ。11人のおとなと5人の子どもが同じ「家」の住人となった。「家」には共同の台所と居間がある。私と私の子どもたちの部屋は、2部屋に小さな台所、シャワーとトイレがついていた。

最初にするのは時間割づくり。1週間20時間以上の授業をとらねばならない。私は、外国人のためのデンマーク語、絵画、コーラス、合奏、演劇をとることにした。授業はすべてデンマーク語で行なわれる。科学史の授業がすばらしいとの評判だったが、私の語学力ではわかるわけもなく、あきらめた(科学や数学を歴史的な物語のかたちで教えるのも、フォルケホイスコーレの伝統だ)。

絵画の授業では、デッサンを描くと、ずらりと並べてみんなで見る。じょうずな人もいるけれど、驚くほどへたな人もいる。それでも、恥ずかしがって隠す人はいない。先生も「みんなちがうのがすてきなことよ」といって、それぞれのよいところを見つけてくれる。かわるがわるモデルになる。ヌードのモデルも男女とも生徒の中から出たのには、描く方がどぎまぎしてしまった。

描いているうちに、どうしようもなくへただった人のほうが、味のあるいい絵を描くようになってきたのは、ふしぎだった。かれらは「好きならそのうちじょうずになるよ」と口々にいう。

コーラスがまたへただった。とくに、男の人たちは、お経を唱えているようだった。ふだん冗談ばかりいっている人たちが神妙な顔をしてうなっているのは、なかなかたのしい光景だった。女の人も、ソプラノはきれいだけれど、アルトはひゅうひゅういうばかり。先生はそれを気にかけるようすもなく、いかにもたのしそうににこにこしながら、いろいろな歌をどんどんうたわせる。音の取れる人のまわりにみんなが耳を寄せる。つられてだんだんうたえるようになっていく。3か月経ってみると、数曲のレパートリーを、ちゃんとコーラスできるようになっていた。

劇の授業では、討論ばかり。つぎになにをやるか。どんなやり方がいいか。先生の提案どおりにはけっして進まない。寝転がったり、コーラを飲んだりしながらも、全員が真剣に討論するようすは、私には新鮮だった。「意見がない」「わからない」と言う人がいないのだ。

「人と違う自分」に対する自信を持っているからだろう。どうしたらこういう自信をみんながもてるのだろうと思った。

日常の生活から離れて

人は、なぜここに来るのか。 「毎日忙しくしていると、だんだん患者さんに機械的に接するようになってしまう。いろんな人と出会って、もっと良い看護婦になりたいから」休暇をとって来たという エレン。「大学の仏文科に入ったけれど、私には合わない」と、やめてきたリスベット。ここで教員になることに決め、秋からは教員養成学校へ行った。「目の病気で失明するかもしれない。友だちと勇気が欲しくて」子連れで来たヘレ。自転車旅行にも挑戦していた。「論文を書き上げて、リラックスしたくて」来た大学院生のポール。「たんなるリフレッシュ」と笑うミカエル。失業中の人、離婚後の痛みを癒しに来た人、デンマーク語の勉強に来た留学生。ただ「人に会いたくて」という人もいた。

このまますすもうか、どうしようか、迷うとき。日常の生活からしばし離れて、ふだんなら会うこともない人たちと生活をともにする。こんな場が日本にもあったら、もう少し社会の風通しがよくなるだろうと思う。


伊藤美好(いとう みよし)

※ 写真は、アスコウホイスコーレ。雑誌には掲載していないものです。


◇ あゆみ出版の了解を得て、インターネットに公開しています。

ご意見、ご感想は、io@itoh.orgまでお願いします。

[Io - Index] [人魚姫の国からToppage]
各回へ [ 1| 2| 3| 4| 5| 6| 7| 8| 9| 10| 11| 12 ]