パンケーキの国で 〜子供たちと見たデンマーク〜 ◆ 21

フリースコーレ

公立学校を変える大きな力に

東京新聞:1998年11月3日掲載

アスコウの保育園で

日本の学校から見たら、自由で、子どもの権利が十分に守られているように思えるデンマークの公立学校だが、昔からこうだったわけではない。

少なくとも1940年代まで、公立学校には、先生の怒鳴り声と鞭の音が響き、子どもたちは詰めこみ教育とテスト、成績表に追われていた。

同じ時代に、まったくタイプの違う学校が始められた。 グルントヴィの思想に共鳴した農民たちが、自分たちの子どものために各地で作ったフリースコーレ。社会を変える民衆の運動が生み出した学校だ。 フリースコーレでは、体罰も、試験もなく、家庭的な雰囲気の中で、教師と生徒の対話と歌、創造的な活動を中心とした授業が行われる。

農民たちは、神の真理は聖書に書かれた言葉にではなく、貧しい人たちの日々の言葉の中に生きている、という信仰に支えられ、その信仰に基づく教会を作った。商人たちが不当に儲けていると感じると、協同組合を作り、出荷も販売も自分たちで管理した。集会所がなければ、みんなで力を合わせて建てた。

このように、彼らは、社会に矛盾があれば、話し合いをしながら自分たちで変えていくという経験を積んだ。国の教育に満足できなければ、家で子どもを教育する。 それが無理なら共同で学校を作ろう、という動きが起きたのは、自然なことだった。

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デンマークでは、1814年に、すべての子どもに7年間の無償の義務教育を保障する学校法ができた。フランスやドイツなどより半世紀早い。 これも農民運動の成果だった。 これに対し、グルントヴィは国家が教育に介入することの危険性を説いた。 彼は、義務教育は、民衆を権力の要求に合う型にはめ込む強制訓練所となり、怠惰で無関心な人間を生み出す、と警告し、親の教育権を国に侵されてはいけない、と主張した。

この学校法には、「親が子どもの教育に責任を持てる場合、子どもを公立学校に通わせる義務はない」という条文があった。これは、家庭教師を雇うことのできる裕福な家庭向けの項目だったのだが、1830年代になると、一般の家庭にも、親が自力で教育できれば子どもを公立学校にやらなくてよい、という考えが広まった。 子どもをどのように教育するか決める権利は親にある、という思想は、デンマークの教育の基をなしていて、現在の憲法にも同様の条文がある。親たちは自分の信条に基づいて自由に学校を作る事ができるのだ。

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第2次大戦後、公立学校はフリースコーレやフォルケホイスコーレの影響を受けて少しずつ変わっていった。 50年代には体罰がほとんどなくなった。 60年代には教師からの一方通行の授業から、対話やグループでの話し合いが重視されるようになった。 さらに、1968年の学生運動を経て、70年代に公立学校はすっかり変わった。 卒業までの9年間クラスが同じ。7年生まで試験は禁止。 成績表もない。 競争ではなく、協力を大切にする。学校の運営に親と生徒が主体的に関わる…

現在の公立学校教職員組合の標語は、「学校のためにではなく、生のために学ぶ」だ。人は、学校の成績を上げたり、よい学校にはいるためにではなく、自分がよりよく生きるために学ぶ。 グルントヴィの思想が、草の根の運動を通して公立学校にまで浸透したと、いえるだろう。

伊藤美好(いとう みよし)

※ 東京新聞の了解を得て、インターネットに公開しています。

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