息子は同級生のことで悩んでいたが、担任の先生も、息子について困っていらした。 クラスの仕事はやる。 課題もやる。 けれども、何もしゃべらないというのだ。 「授業であてても、『分かりません』か『知りません』しかいわない。 でも、様子を見ていると、どうもかなりわかっているようだ。 私はからかわれているのでしょうか」
息子に聞くと、「何を言っていいか、わからない」と言う。 私はコペンハーゲン大学での自分を思い浮かべた。 授業中や、雑談の時、頭に浮かんだことを、「言おうか、どうしようか」と思いつつ言葉を探していると、話題が他に移ってしまって、そのままになる。
そんなことを繰り返しているうちに、だんだん口から言葉を出すのが面倒になってくる。 彼もそうなのだろうか。
アスコウでは、デンマーク語の個人授業の時間を特別に設けてもらっていたが、コペンハーゲンでは、全体の約1割、50人ほどいる難民・移民の子どもたちが優先となって、彼は特別授業を受けることができないでいた。ほんとうは、友達と遊んだりしゃべったりしながら覚えていけばいちばんいいと思うのだが、自分にもできないことを「やれ」というわけにもいかない。
「家庭教師」でも募ろうか、などと思いあぐねていたころ、先生から電話があった。
「青少年学級で、『外国人のためのデンマーク語』コースがあるから、それを受けたらどう?」。
青少年学級というのは、13歳から18歳までの青少年に市が提供している一種の課外活動だ。 義務教育終了試験の受験科目のサポート、各種語学のほか、情報、工芸、美術、スポーツなどのコースがある。 受講は無料。市内の学校の校舎や設備を使い、学校の先生が講師になる。
「外国人のためのデンマーク語」は、隣町の学校でやるということだった。 ところが、講師の予定で開講が1週間遅れた。 「『デンマーク語読み書きコース』というのもあるよ」。 担当の先生から聞いて、息子は自分の学校でやる「読み書きコース」に参加することにした。
生徒は8人。うち、デンマーク人は2人。 そのうちの1人が、息子のクラスメートのキム君だった。 自己紹介のあと、授業は初歩の文法から始まった。 しばらく見ていて席を外した私が教室に戻った時は、低学年向けにやさしく書かれた「ロビンソン・クルーソー」を順に読んでいた。 息子もぼそぼそと読む。 次は、キム君の番。 読めない。 先生が助けを出すと、ようやく蚊の鳴くような声で、つっかえながら読む。 もう一人のデンマーク人の子もほとんど読めなかった。 これには驚いた。 あんなによくしゃべる子たちが、7年間学校に通っていて字を読めないのだろうか。
次の日、また先生から電話があった。 「今日キム君が『彼はぼくよりずっとよく書けるし、本も読めるよ』と言っていました。 彼の問題はデンマーク語ではないようですね。 好きなことをやったら心を開くのでは。 コンピュータコースに替わったらどうでしょう」
もちろん、息子は喜んでコースを替わった。
この話を日本の友人にしたところ、とても驚かれた。 「日本の中学生だったら、他の子のほうができるよ、なんて決して先生に言わないわよ。 それが言えるのは、字が読めないことに劣等感を持たされていないからでしょう。 すごい教育ねえ」
日本では、「できない」子は、そのことだけで人生の落後者のように思わされ、つぶされてしまうことが多いという。 字が読めないのは、これまで興味がなくてやらなかっただけのこと、今からやればいい、とはならないようだ。 一つの物差しで人を測らないということの大切さを、あらためて感じた。
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