子どものうちは友達といっぱい遊ぶのが一番。勉強は、したくなったときに、やりたいことをやればいい。将来何になるかは、子ども自身が決めること。 これが、デンマークの親のごく一般的な考えだ。そこから見ると、日本の教育状況は、摩訶(まか)不思議なものとなる。
「日本の子どもは、学校の授業の後にまた別の学校(塾)に行くって本で読んだけど、本当?」と聞かれ、 「うーん。10歳くらいになると、かなりの子が行くんじゃないかな」と答えると、 「いつ遊ぶの」 「小さいときに一日中勉強するのは、体にも頭にも悪いよ」 「自分でものが考えられなくなるのでは」 「精神的におかしくならない?」 「日本の親は子どもの体のことを考えないの?」 などの声が返ってくる。
日本の学校の体罰についての特集記事が新聞に載ったときは、ほんとうにまいった。 1940年代頃まではデンマークの公立学校でも体罰がひんぱんに行われていた。 しかし、1967年に体罰が禁止され、体罰を加えた教師は即刻解雇されるようになった。 それから30年たった今、一般の人にとって、教師が生徒に暴力をふるうという事は、想像もつかないことになっている。
新聞記事には、日本では体罰が法律で禁止されているにもかかわらず、教師が生徒に暴力をふるうことが日常的に行われている、と書かれ、その不幸な結果として、修学旅行にドライヤーを持ってきた男子生徒が教師の暴行を受けて亡くなった岐阜の事件と、登校時間に数秒遅れた女生徒が、教師が閉める校門の門扉に押しつぶされて亡くなった神戸の事件の2つが紹介されていた。
「ほんとにこんなことがあったの?」 「うーん…」。 言いたくないけれど、日本からの小包に入っていた古新聞には福岡の女生徒が教師に殴られて亡くなった事件が記されていた。 「えっ。どうして?」 「よくわからない。スカートが短かすぎたって書いてあるけど....」 「なんでそんなことで生徒を殺すの?気が狂ってたの?」 「うーん…」デンマーク人からみたら、狂気以外の何物でもないだろう。
私も、 こんなささいなことでかっとなって子供を死に至らせるほど殴るなんて、まともではない、と思う。 でも、こういう場合の校長の談話では、ただ「熱心な先生だった」となるのがお決まりだ。 「この学校ではふだんから生徒を殴っていたんだって」 「ええっ。じゃ、その学校はつぶれたんでしょ」 「いや。ほかの生徒はまだ通っているみたい」 「親が引き取らないの?」 「いや…」
「日本の親は子供を愛してないの?」 「そんなことはないんだけど」 「じゃ、どうして子供を殴るようなところへ通わせるの?」 私にも分からない。 もっと分からないのは、生徒が亡くなっても「期末試験前なので/入試を控えた大事な時期なので」 「動揺しないように」などという言葉が校長の口から出たり、「あまり騒ぐと内申書にひびく」といった声が親たちから出る事だ。
人の命と試験とどちらが大切なのだろう。 このところ、子供たちが刃物による殺傷事件を相次いで起こしている。 「命の大切さが伝わらない」「人の痛みを感じない子供たち」等の言葉を見るたびに思う。 これまで子供の心の痛みを感じようとせず、人の命を大切にしてこなかったのは、だれだったのか、と。
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