息子と隣の席のデヴィッドとのトラブルについて、校長室で話した時。 校長先生がデヴィッドと話すために部屋を出た後で、担任の先生がこんなことを言った。
「実はデヴィッドのことは前から気づいていました。 何度か注意もしたのですが、そのたびにデヴィッドは『わざとじゃないよ。でもごめんなさい。 これから気をつけます』と言う。本人のほうも何も言わないので、それ以上どうしようもなかったのです。 もっと早く言ってくれれば、彼もこんなに傷つかずに済んだのに」
ひどい、と思った。 おかしいと分かっていたのなら、親に知らせるなり、席を離すなり、何らかの方法があったのではないか。 言葉のハンディがあって、込み入った話はできないのも分かっているのだから、もう少し配慮があってもいいのではないか。
でも、先生と話をしながらそれまでの1年半を振り返ってみて気がついた。 デンマークでは、本人が主張しない限り、何も始まらないのだ。 周りの人が「おかしいのでは」と感じても、本人が「いやだ」と言わなければ、「それでいい」ということになってしまう。 それ以上踏み込むのは別の意味での人権侵害になる、ということのようだ。
その代わり、本人が主張をすれば、聞いてくれる。 そして、可能な限りで何らかの対応がある。 このときも、私が「日本という国への好奇心もあって、からかったのかもしれないと思うので、子供たちに日本のことを話していただけないでしょうか。 他の国の文化を知り、尊重することも、大切なことだと思うのですが」と言ったところ、担任の先生はさっそく日本に行ったことのある同僚の先生から日本について聞いて、授業の中で日本の話をしたり、和英対訳になっている日本の絵本を借りてきてみんなの前で息子に読ませたり、日本の文字の説明を息子にさせたりしてくださった。
何より先生自身が日本に興味を感じたことが生徒に伝わって、クラスの雰囲気が変わったようだった。 「いじめを許さない」というのは、いじめられたときに「いやだ」と主張できる、ということでもあるのだろう。 人には、自分の正当な権利を守るため、自ら主張する義務がある、という民主主義の考えが、その基にあるように思う。 ただ、これは、「言えば聞いてもらえる」という信頼感がなければできないことだ。
今思うと、息子が長い間何も言わなかったり、彼から話を聞いた私も先生に伝えるのをためらった裏には、「いやだ」と言っても聞き入れられなかったり、言ったためにかえっていやな思いをしたり、という日本での経験があったような気がする。
最近、日本でもセクシュアルハラスメントということが言われるようになって、慌ててマニュアル作りをする企業が現れた。 いじめ防止のためのマニュアル作りもさかんだ。 いじめの「定義」などというものも作られたようだ。
だが、いじめやいやがらせというのは、相互の関係の中で起きることなので、第三者が「ここからはいじめ、いやがらせ」と線引きすることは本来できないものだ。 他の人にはどんなにささいなことに見えても、受けた側が「いやだ」と感じたら、それはいやがらせであり、いじめであるのだ。
「いやだ」という当人の声をきちんと聞くこと。 そのことを忘れたら、どんなマニュアルを作っても逆効果になるだけだろう。
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