Io
子どもの目線に立つということ


 鳩山町に越してきて一週間余り。我が家の4人の子どもたちと、二匹の猫も徐々に新しい“すみか”になじんできたようです。住民票の移動とともに、中学生二人と小学生一人は転校の手続きをとりました。とはいえ、長男、次男、三男ともに目下のところ不登校を選択中なので、学籍の移動だけということになります。それぞれの学校に赴き、お話してきたことを書いてみます。



 「子どもは今、学校を『利用しない』という生き方を望んでいます。」

 それぞれの子どもがそれぞれの理由によって、学校へは行かないという結論を出してきました。学校へ行くことが当たり前だと思っている大人側からすればとんでもないことに見えてしまうかも知れません。しかし彼らからすれば、彼らの『理由』を押し殺してまで学校へ行くことは正当でない、言い換えれば尊厳を無視されること、それこそ『魂を売り渡す』ことに等しいのです。
 多くの日本人が学校へ行くことを当然としている現実も、彼らは理屈抜きで体感しています。それでもあえて『行かない』選択をしているのです。この選択を大人が軽々にあしらい、無視して良いはずがありません。
 学校へ行くか、行かないかを含めて、自分がどう生きていくのか最終的に決めるのは生きていく当人だ、というのが我が家の方針です。

 「通知表は作らなくて結構です。」

 学校を利用しないのに在籍の手続きをとるのは、現行法では親の修学させる義務というものがあるからです。しかし実際『評価』をする側の人間(先生)との接触の機会もそう多くはありません。『評価』をつけてくださいとお願いすることのほうが不可能なのです。さらにいえば、学校のカリキュラムとはまったく違うところでの学びをしているのですから、彼らにとって『評価』そのものが意味を持たないのです。ですから、通知表は作ってくださらなくて結構です。中学生に関しては、内申点も『ナシ』ということで承知しております。



 ざっと以上のようなやりとりをしてきました。「親がそのように事を運んでしまっていいのか?」という疑問を持たれる方もいらっしゃることでしょう。答として私の言えることは、子ども達が言葉にして望んだのではありません。しかし子ども達の有り様が、親をこのように変えてきたのだということなのです。特に通知表に関しては、今後、4人の子どものうちから学校利用者がでてきたとしても、彼ら自身が必要としなければ今と同じく「作らなくて結構です」と言っていくことになるでしょう。彼らにとって必要でなければ、我が家で他にそれを必要とする人間はいませんから。

 制度は人間が作るもの、そして時代、時代の必要性に応じて変えていくものです。制度の前に人々の意識があるのです。意識が先行し、制度がそれに即した形に変わっていく。そのようにして歴史は流れてきたはずです。法を犯して良いと言っているのではありません。身の回りのことが何から何まで法できちっと固められているわけではないのです。通知表のことも、法で作成を義務づけられてはいません。受け取ることが親の義務として定められているわけでもないのです。「頭では解かっていてもなかなか子どもを受け入れられない」ということの最大の障壁は、ただ単に世間体であったり、親のプライドだったりするのかも知れません。

 そういう意味では子どもは実に自由です。こうありたい、これはいや!という自分の感覚に忠実です。残念ながら、今はその感覚を表に出すことを禁じられてしまうということが多いようです。その為だけではないでしょうが、理論的に言葉としてはなかなか表現してきてくれません。しかしその表情、そして体で訴えてきます。『これは今の僕、私にとって正当でない!』と。

 現実を見てください。不登校を生きている子ども達がこれだけ増えてきたことによって、文部省を初め各学校機関は彼らに対するこれまでの対応を変えることを余儀なくされてきています。高校入試制度のあり方も、高校の在り方自体にも変化が見られます。『学校にいかないで生きる』という彼らの意識が、回りの世界の有り様を変えていっているのです。この小さな流れは、近い将来学歴社会の在り方を変化させ、やがて法制度の改革へとつながる大きな一筋の流れとなるでしょう。

 今の私たち夫婦は、そんな流れの中をどんどん進んでいってしまう子ども達に遅れをとってはならぬと、その後をエッチラオッチラおぼつかない足取りでついていっているのです。

 今、子どものおかれている状況、子どもを巡るさまざまなシステムに疑問を感じながら、それに適応することを子どもに強いている大人達。立ち向かう方向が違ってはいませんか。何故そのおかしな状況、システムを捨てようとしないのですか?
何故そんな状況、システムに依存しようとするのですか?
 制度が変わらない限りあなた方の意識は変わらないのですか?
それがあなたの生き方なのですか?
もう一度自分の生き方を見つめ直してみませんか。

(1998年 7月15日 東松山不登校を考える会を終えて  井上祐子)



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