ガンルーセに引っ越して一週間目のこと。玄関のブザーがなったので、出てみると、男の人が立っている。
「署名お願いします」
引っ越してきたばかりで、よくわからない、と断ろうとしたが、それにかまわず話し出す。 「芝生広場に、市がもう一つ保育園を作ろうとしているのですが、私たちはそれに反対しているのです」
「あそこにできると、子どもが遊んだり、走り回ったりするところがなくなる、ということですか」 「そのとおり!保育園ができると、車が入るようになって危なくなり、子どもたちが安心して遊べなくなります。町外れに保育園を作る場所はあるから、そっちに作ればいいんです。だいたい、町の子どもの分は、今の保育園で十分なんです」
ちょっと説明が必要だろう。ガンルーセは、ほぼ一キロメートル四方の小さな町だ。町の周りは麦畑と森。町の真中に古い風車があり、その前にだだっぴろい芝生が広がっている。地図で見ると、200×100メートルくらいだろうか。ここに保育園ができるというので、反対しているのだ。もっとも、そのとなりにも空き地はあるし、道を隔てた反対側にも、けっこう広い芝生の遊び場があって、こちらには遊具もあったりする。サッカーができる芝生広場はまた別にある。日本人の感覚では、「ちょっとぜいたく過ぎないか」と思うような話だ。
けれども、私も、この、町の中央にあるなんにもない芝生広場が気に入っていたので、署名した。 あとでローカルニュースをみると、八百数十戸しかないこの町で、1000名以上の署名が集まったという。学校の体育館で開かれた集会には、300名ほどの人が集まり、熱のこもった議論がかわされたそうだ。
そして、市は保育園を作る案を撤回した。
広い芝生では、ときどき子どもが凧上げをする姿を見る。鎖を外した犬がころげまわっている。年に何度か、フリーマーケットが開かれる。移動遊園地が来る。そして、年に1回、サーカスが来る。
トラック何台かでやってきて、一夜限りの興行をするサーカスは、夏の大きな楽しみだった。一ヶ月くらい前から、あちこちにポスターが貼られる。当日の朝、芝生広場に動物を乗せた車が到着する。見ている前で、大きなテントがふくらんでいく。昼過ぎから、チケットを買いに、町の子どもたちが並ぶ。サーカスがはじまるのは夜7時過ぎ。下は芝生、テントの真中の穴からは、青空が覗く。並べられた椅子には、知っている顔ばかり。町じゅうの子どもたちと、その親たちだ。
芸のほうは、とても上手とはいえない。一輪車は、日本の小学生のほうがうまいかもしれない。つなわたりの綱も、せいぜい肩のところ。でも、スリルはいっぱい。失敗しても、成功するまで、観客の手拍子が続く。成功すれば、もちろん大拍手だ。
次の日の朝には、テントも、車も、跡形もなくなっている。夢をみていたかのようだ。
この不思議な感じが楽しくて、デンマークにいた2年間に、4つの町でこんなサーカスを見た。
サーカス団はいくつもあって、夏中あちこちの小さな町を回っている。サーカスのテントを張ることのできる広い芝生広場が、たいていの町にあるというわけだ。
それは、ガンルーセの芝生広場のように、町の人が守ってきたものなのだろう。
「何にもない空間」の大切さをみんなが認識し、しっかり守っていくところに、この国のゆたかさを感じた。
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