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デンマークの陪審制度・参審制度について
デンマークの陪審制度・参審制度について
**********2000年4月18日に、四宮 啓さんという弁護士さんの「デンマークの陪審制度・参審制度」という講演会に行きました。
北欧の福祉・文化研究会と、北欧友の会の主催でした。
というと、大講演会のようですが、聞き手が10人に満たなかったのはさみしかった(うち3人は主催者だったし)。
とてもおもしろかったのに。
題が地味過ぎたのかな。
で、もったいないので、報告をします。
司法制度改革の話を新聞などでもよく見かけるようになりました。
そのひとつに、裁判の民主化--市民参加があります。
日弁連の司法改革推進センターの人たちが、他国の市民参加の裁判を学ぼうと、いろいろ勉強をした、そのひとつで、1997年春にデンマークへ視察をしたということです。
その報告は、「デンマークの陪審制・参審制」という本になっています(現代人文社)。
弁護士さんたちの驚きが率直に表れていて、おもしろい本です。
四宮さんは、このときにデンマークに行かれた方です。
10年以上前から日本でも陪審制を復活させることを主張されていて、アメリカの陪審制の調査もされたということです。
「O・J・シンプソンはなぜ無罪になったか」(現代人文社)という本も書いておられます。
これも、とてもおもしろい本です。
裁判に市民が参加する方法として、大きく分けると陪審制と参審制の2つがあります。
旧ソ連式の、軍人が参加する参審制というのもあるそうですが。
陪審制というのは、一般国民から選ばれた陪審員が、裁判官から独立して、会議をひらいて、起訴・不起訴や有罪・無罪などの審判をする、というものです。
アメリカの映画などでよくありますね。
参審制というのは、一般国民から選ばれた参審員が、裁判官と一緒に裁判・審判に参加する、というものです。
陪審制は英米で、参審制はヨーロッパ大陸の国で多く行われている、とだいたいはいわれています。
いわゆる先進国は、ほとんどがこのどちらかの制度をとりいれているそうです。
G7のなかで、市民参加の制度がないのは日本だけだということでした。
さて、法体系には、これまたおおまかにいって、英米法と大陸法というのがあります。
大陸、というのはヨーロッパのことで、大陸法とは、ドイツやフランスを中心として発達した法体系のことを指します。
英米法は、字の通り、イギリス・アメリカを中心に発達したものです。
日本の民法・刑法・商法など、明治時代に作られたものは、大陸法系の考えが基礎になっていますが、憲法・刑事訴訟法など、戦後作られたものは、アメリカ法系の法律です。
なんかへんな話ですけど。
裁判は、訴訟法に基づいてされますから、日本の刑事裁判の原則は、英米法的です。
英米法では、裁判を主導するのは、裁判官ではなくて、検察官と被告人・弁護士(当事者)です。
裁判官は、双方の主張を聞いて、判断を下します。
大陸法では、裁判は裁判官主導で行われます。職権主義というそうです。
陪審制は当事者主義に、参審制は職権主義になじむ、と一般にはいわれています。
日本の裁判は、基本的に当事者主義で、補充的に職権主義を使うといわれています。
そのほかに、日本の訴訟法の大原則としては、
公開主義(裁判が国民に公開されるということ:傍聴ができる)、
口頭主義(法廷で、口で言ったことを審判の材料にするということ)、
弁論主義(当事者の主張・立証・意見の陳述に基づいて審判が行われる原則)
があります・・あるはずです・・機能しているかどうかは別として。
さてさて、日本の弁護士さんたちが驚いたのは、デンマークは大陸にありながら、当事者主義・公開主義・口頭主義という、英米法系の制度を持っているということ。
しかも、陪審制と参審制の両方が並立して存在しているということでした。
デンマークでは、陪審制は、1849年に憲法が制定された時に導入されました。
イギリスの影響ということです。施行は1919年から。
参審制は、1930年の刑法の大改正の時に導入されました。
陪審制は、お金と時間がかかるというのが理由だったようです。
つまり、裁判の効率化を図ったということになります。
デンマークには、最高裁1つ、高裁2つ、地裁(市裁判所)が84こあります。
二審制をとっていて、事実関係については、1回しか判断しません。
これは、事実関係について、2回の判断を保障する、というヨーロッパ人権条約に触れるということで問題になっているそうです。
デンマークの刑事裁判制度の基本理念は、さきに書いたように、当事者主義、公開主義、口頭主義、弁論主義ということです。
が、日本とちがうのは、これが徹底しているということです。
まず、公開主義についていうと、日本でも、裁判の傍聴はだれにでもできるのですが、そのことを知らない人は今でも多いそうですし、裁判所、というのはいかにも敷居の高い、行くとお腹の痛くなるような場所です。
デンマークでは、裁判所は市民に開かれなくてはならない、という考えが行き渡っているそうです。
デンマークのお役所、どこに行ってもそうですけど、裁判所も、とてもフランクな、心安い雰囲気だそうです。
「デンマークの陪審制・参審制」という本の中でも、日本の弁護士さんたちが、デンマークの裁判官や弁護士や検事のカジュアルな服装にびっくりしているようすが出てきます。
裁判官や弁護士がスーツを着ていないとか、検察官が紺のタイツをはいて、小さいバッグを斜め掛けにしているとか、「日本では考えられない」と書いているけど、どこが変なんだろう?
コペンハーゲン大学の刑法の先生のエヴァ・スミスさんが、「閉鎖されたシステムは硬直化する」と言われたそうですが、ほんとにそう思います。
口頭主義、についても、ほんとうに法廷で口で言った事しか証拠・審判の材料として採用されないそうです。
文書があれば、それを全部読み上げるそうです。
なぜか、というと、これは公開主義と関係があって、口で言わないと、傍聴人にわからないからです。
ところが、日本では、「冒頭陳述」といっても、「書面の通りです」で終わる事が多いのだそうです。
そして、記録には「書面に基づき陳述」とかかれるのだとか。
裁判官が検察官に何かありますか、と聞くと、「然るべく」と答えるなんて、なんだかお白州の裁きみたい。
だから、傍聴しても、ほとんどなにもわからないということも多いそうです。
これでは、実質的には公開主義といえませんね。
裁判の進め方ですが、犯人が自白した事件(全事件の9割以上)や、罰金事件については、市裁判所で、裁判官が一人で裁判をします。
検察官の求刑が四年未満の軽い事件は参審裁判(一審:市裁判所、二審:高裁)へ、求刑が四年以上の重い事件(全事件の1%程度)が陪審裁判(高裁)へとまわされます。
参審裁判の第一審では、裁判官1人に参審員2人(男女)、第二審では、裁判官3人に参審員3人で裁判をします。
評決は多数決で、同数になった場合は、被告人に有利な結論になります。
一緒にいると意見をいいづらいということを考慮して、若い人が先に発言する、素人(参審員)が先に発言する、というルールになっているそうです。
陪審裁判では、裁判官3人と陪審員12人で裁判します。
陪審員だけで評議するのは、有罪か無罪か、というところです。
8人以上が有罪としたら、有罪となります。
英米では全員一致でなければ有罪にならないのと、ちょっと違います。
ですが、陪審員が有罪としても、裁判官が無罪と思ったら、これをひっくり返すことができます。
有罪評決破棄制度です。
陪審で無罪と出たら、裁判官が有罪と思っていても無罪です。
つまり、陪審員と、裁判官の両方が有罪としないかぎり、無罪になってしまいます。
これを「二重の保障」と呼んで、デンマーク人たちはたいへん自慢していたそうです。
量刑、つまり刑罰の重さをどうするか、と言う時になって、はじめて裁判官が部屋に入ってきていっしょに議論をします。
量刑に関しては、専門的な法律の知識が必要になるから、ということです。
裁判官は一人4票、陪審員は一人1票ずつで、多数決で決めます。
陪審員のうち、少なくとも一人を味方につけないと、裁判官だけの意見では量刑もきまらない、ということになります。
参審員、陪審員は、18歳以上の有権者から、地方自治体が基礎リストを作り、高裁が前科などをチェックしてリストにし、 そこからコンピュータで無作為に選ぶそうです。
任期は四年で、再任もできるそうです。
・・
というようなデンマークの陪審制・参審制の話に続けて、日本の戦前の陪審制と沖縄の話もちょっと聞きました。
日本では、原 敬が、熱心に陪審制を導入しようとしたそうです。たいへんな圧力がかかる中で。 彼は銃弾にたおれてしまいましたが、彼の死後、1923年に陪審法が成立し、1928年(昭和3年)から施行されました。
施行された当時は、あちこちで模擬陪審をしたり、映画を作ったりして宣伝されたそうですが、なにしろ時代が時代だったので、 どんどんジリ貧になって、陪審法は1943年(昭和18年)に停止されてしまいました。
また、当時裁判官や弁護士の人権意識も薄くて、陪審員に選ばれた人に、辞退する様説得したなどということもあったようです。
それでも、この間に484件の陪審裁判が行われました。
裁判官は陪審員の出した結果に拘束されないという規定もありましたが、484件の中で81件の無罪という陪審の結果がでて、 それを裁判官が無視したのは24件だったということで、一定の効果はあったようです。
484件中81件が無罪、というのは驚異的な数字ということでした。
というのは、今、日本で4000件の否認事件(被告人が自分はやっていないという)があるけれど、そのうちで無罪になるのは わずか2%なのだそうです。
女性は陪審員になれないとか、高額納税者しか陪審員になれないとか、いろいろな制約のある中で、しかも軍国主義体制の下でも、 そういう判断ができた、ということを強調しておられました。
よく、陪審制は日本にもあったけれど、国情に合わなかったため、行われなくなったと聞きますが、こんな時期まであったというのは かえって驚きです。
戦前に陪審法が停止されてから(「戦争が終わったら復活する」とあるそうですが)日本では陪審裁判が行われていませんが、 米軍の下にあった沖縄では陪審裁判が行われました。
陪審員になるには、英語が堪能で、3ヶ月以上在住している人なら日本人でもなれたそうです。
そして、記録を見ると、アメリカ人と対等にやりあっているようすがわかるそうです。
今の日本の実情を見ると、今陪審裁判をやっても冷静な判断はできないんじゃないのか、という質問が会場からあったのですが、 四宮さんは、この、戦前の日本と沖縄での経験から、今日すぐにやっても大丈夫だ、と断言しておられました。
テレビを見ながら無責任な立場で意見を言うのと、責任を持って審議するのとではちがうという事、まず初めに 「この人は有罪が確定するまでは無罪です」と無罪推定のルールを説明されて、それをひっくりかえす検察側の証拠を説明され、 次にこれらの証拠のどこかに問題を感じるかどうか、もし問題が少しでもあると感じたら、この人は無罪としてください、と、 説明されてから審議をすれば、不当な判断をすることは少ない、とおっしゃっていました。
また、裁判に市民が参加することで、法が市民の間に浸透する、ということを言われました。
それこそが、「法の支配」の実現ではないか、ということも。
それはそうだろうなあ、と思いました。
だけど、日本の裁判官が、しろうとにわかるようにきちんと説明できるのだろうか、
しろうとの意見をきちんと尊重する気になるのだろうか、そのあたりがどうだろうと思いました。
だけど、どこかからか始めないと、なにも変わらないわけです。
無責任な人たちだから、責任を持たせない、といっていたり、自主性がないから
自主的に判断させるわけにいかない、と言っていたら、永遠に変わらない。
これは、子どものことでもそうですけど。
やってみれば、市民の自覚も高まるだろうし、相互作用で裁判官や弁護士や検察官も、もう少し意識が高くなるかもしれません。
などということを、いろいろと考えました。
デンマークの裁判制度が英米法系だ、という話に関しては、以前同じ会の主催の講演で、デンマークの刑法を勉強している方の話 を伺った時に、デンマークがイギリスを支配していた頃、デンマーク支配下のイギリスで適用されていた法律--dane law が、 英米法の基礎になった、という話があったことを思い出しました。
陪審制のもとも、もしかしたらデンマークということもあるかも、と思って四ノ宮さんに伺ったら 「そういえば、イギリスの人は、イギリス起源だというけれど、デンマークの人は、北欧起源だといってました」とのことでした。
陪審裁判って、なんとなく、バイキングっぽい感じですよね。
それから、1930年の刑法改正の時、コペンハーゲン大学の教授になっていたカール・トープという人が (いろいろポスト争いがあったらしいのですが)ドイツのリスト、という有名な法学者(教育刑論の大家)の弟子だったということなので、ドイツ系の参審制が取り入れられたのには、そういうこともあるかもしれません。
伊藤美好