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子どもたちとのよき出会いを求めて


これは、2001年1月13日(土)、愛知県豊橋市公会堂で、法律補助協会愛知支部および名古屋弁護士会豊橋支部の主催で行われた講演会の記録です。

子どもたちとのよき出会いを求めて

日本スクールソーシャルワーク協会
会長 山 下 英 三 郎 さん

 こんにちは。ただいま御紹介にあずかりました山下です。
 先ほど私も、会場の方でクイズに参加していたんですけれども、私法学部の出身でして、法律を勉強したとは言わないけれども、法学部にいたということで、これで全部できなかったら、いかに勉強してなかったか。そういうプレッシャーを感じながら聞いていたんですが、最後のはわからなかったですね。外れました、やっぱり。あの問題に関しては、なかなか難しいなと思いました。それで、自分が講演しなくてはいけないということをつい忘れて没入していたんですが、番が回ってきまして、話をさせていただくということになりました。


【いつの時代も子どもたちは受難の時代を生きている】
 子どもたちのことに関しては、ここのところマスコミ等を騒がせていまして、昨年も本当にいろいろな事件がありましたね。バスジャック事件とか、この近辺だと5000万円恐喝事件だとか、豊川の方の殺人事件だとかたくさんありました。つい先週あたりの成人式では、子どもと言えるかどうか微妙な年齢ですが、二十歳の青年たちが成人式の会場であばれたりするということがあったわけですね。もう少し年齢が低いところでは、学級崩壊といったことも起きたりして、子どもたちの社会といったものがおかしいんじゃないかと思っている大人たちが非常に多い。そういうことに対して、もうちょっと大人が厳しく対応しなくてはいけないのではないかということが盛んに言われたのが、昨年だったと思うんですね。

 11月の末ぐらいには少年法の改正法案が成立しまして、刑法の適用年齢を下げるというようなことをやったり、それから12月の末には、教育改革国民会議という首相の諮問機関から最終報告が出たわけですけれども、そういった報告の中では、「とにかく今の子どもたちはしょうがない。我慢が足りないし、わがままだし、先のことは考えてないし、周囲が見えてないし」という論調で、そういう論調を聞いていると、今は本当に世の中なっとらんじゃないかというようなイメージがあったりするわけです。だけど、子どもたちのことを考えると、本当に今が最悪の時代かなと思うんですね。

 例えば今から60年とか70年ぐらい前ですと、大きくなったら立派な兵隊さんになって、国のためによその国の人をたくさん殺して、国の領土を広げるんだよということを教育されてきた。要するに、軍人さんになりなさいということを言われて育ってきた時代、それから、食べるものがなければ、女の子は遊郭に身売りされたり、それから、生まれたばかりの子どもが間引きというような行為によって殺された時代があったわけです。そういった時代というものが、あたかも昔はよかったというような言い方をされ、昔の子どもたちは、生き生きと健康で、野原をかけ回ってみたいな幸福なイメージで語られたりするわけですけれども、そういう時代の闇の部分を見ないで、単純に「昔の方がよかった」みたいな言い方をするというのは、ちょっと違うんじゃないかと思うんですね。昔の方がよかった、今の方がよかったという比べ方は、もしかしたらできないんじゃないか。いつの時代も子どもたちは、違った形で受難の時代を生きているのではないかということを私は思ったりするんですね。

 特に最近の子どもたちのことについて、「今の子どもたちは言葉が通じない」みたいなことを言うわけです。何を考えているのかわからない。成人式の出来事なんかもそうだと思うんですね。昔の行動パターンと全然違う。そういうふうに言われるんですが、でも、本当に今の子どもたちが言葉が通じない存在であるかどうかということを考えたときに、それはどうなんだろうと思うんですね。言葉が通じないと言っている大人たちが、果たして自分の職場で、地域で、言葉の通じ合う相手をどれだけ持っているか。または、家庭の中、例えば夫婦の関係において、本当に言葉を通じ合いながら家族を維持しているか、機能させているかということを問いかけたときに、それは余りないんじゃないかと思うんですね。

 日本じゅう、大人と子どもの間だけではなくて、日本に生きている我々すべてが、他人と言葉を通じ合わせるということは非常に難しいというのが時代であって、子どもとの関係だけに限定して語るのは違うと思うし、そもそも、人と自分が通じ合うということを前提に物事を考えるということは、これはちょっと違うんじゃないかと思うんですね。他人のことなんてそんなにわかるものじゃないと思うんですね。一緒に長く暮らしていても、何を考えているのかすべてわかるものではない。かつてはわかっていたみたいなことを前提にするものですから、今の子どもたちはわからなくなったみたいに思うんですが、わからないのはもともとそうだと思うんですね。


【わからないことを前提にした上で、少しずつ通じ合うことができる】
 私は1960年代に若者と言われる時代を過ごしましたけれども、そのころも「今の若者はなっとらん」ということを随分言われました。くやしい思いをしました。でももう少し前の時代、例えば江戸時代の本なんか読んでみても、やっぱり「今の若者はなっとらん」というような言い方をされているんですね。ずっとそういう同じようなことを言われているんですが、それはそうだと思うんですね。わからないというのがとにかく前提なんだということなんです。それを前提にした上で、本当に100%わかり合うことができないままでいくかというと、そうではなくて、わからないということを前提にしながらも、わかろうとし合うということによって、少しずつ通じ合っていくものがあるんじゃないかと思うんですね。  私自身は、大人たちと最も遠いところにいる子どもたちとずっとつき合ってきました。それは不登校と言われる子どもたち、不登校の中でも、家の中にずっと閉じこもって家族以外とは接触しない、ときには家族とさえも接触しない、そういう状態で1年も2年も過ごしている子どもたちとかかわってきました。それから、大人たちに対して非常に不信感を持っている子供たち、いわゆる突っ張っている子どもたちですね。「センコウなんかクソくらえ」とか「親なんてクソくらえ」、「世の中の大人なんて信用できるか」なんて思っている子どもたちとずっとつき合ってきたんですけれども、そういう子どもたちと本当に距離を埋めるということをしないでいたら、私自身の活動は全然成立しなかったはずなんですね。でも、私自身は10数年間その活動を続けてきたんです。要するに、距離の遠いと思われる子どもたちと活動を続けてきたんですけれども、結果的には少しはわかり合うことができたんですね。だから、私自身はむしろ、今の子どもたちが言葉が通じないのではなくて、今の子どもたちもやはり言葉を通じ合うことはできるんだという確信が経験的にあるわけです。

 ただ通りすがりに一言、「こんにちわ」とか「さようなら」とか、相手がわからないままに声をかけたり、学校でよくある朝のあいさつ運動みたいなことで、先生が校門に立って「おはよう、おはよう」、あいさつしない子に対してはそばまで行って「おはよう」なんて言って、反応を示さないと、「あいつはだめだ」とかいうようなことを言ったりしますけれども、そういう作為的なことではなく、心から、「私はあなたを理解したい」とか「あなたのことに関心を持っている」という誠実なメッセージを伝え続けることをするならば、子どもたちがそれに反応しないわけはないと思うんです。そういうことをしないいて、単に通りすがりに、茶髪の子を見たり高いヒールの子を見て、「何だ今の子は」みたいなことを言っている状態でちょっと言葉をかけてみても、思わしい反応がないのは当然のことだと思うんですね。やはり子どもたちも、大人がどういうつもりで自分に声をかけているかというのはよくわかりますから、だから、今の子どもたちがわからないということを言ったときには、我々大人の方が、子どもたちにそれだけ気持ちを込めていないということのあらわれじゃないかと思うんですね。

 例えば成人式のイベントでも、代議員の人たちが、青年たちの現実とは全然かかわりのないような祝辞を延々と繰り返してきた。そういったことに対しては全然反省もなく、子どもたちがちゃんと聞かないということだけをとらえているわけです。今の若者たちは、かつての若者たちと行動パターンや何かは変わっているわけですから、今の子どもたち、青年たちを拘束するようなイベント、そういったものを企画するということについて考えなくてはいけないと思うんですね。

 学校の中の学級崩壊と言われる現象もそうですけれども、学校の中の授業が十年一日、百年一日と言ってもいい同じようなスタイルでやられていることに対して、子どもたちが違和感を感じ始めているのではないかということを感じる必要があります。私自身も大学でいろいろ講義をしたりします。学生がうるさいということがよく言われますけれども、やっぱり講義のスタイルを自分自身の中で問いかけるということ、それをする必要があると思うんですね。ただ相手が悪い、悪い、なっとらんということでは何の問題解決にもならないんじゃないかと、今の子どもたちと大人の関係を見て思うわけです。


【子どもの柔軟な心に支えられて】
 私自身は実際に、特に中学校の年齢の子どもたちとずっとつき合ってきた。それから地域の中で、フリースペースと言われる子どもたちの居場所をやっています。そこに不登校の子どもたちとかいろいろな障害、知的な障害、身体的な障害、それから精神的な障害を抱えている若者たち、そういった人たちが一緒に集まってきて、いろいろなことをやっているわけです。そういった中で過ごしていると、子どもたちと自分との距離というものは余り感じないんですね。置かれている状況は違うかもしれないけど、心の中というのはそんなに変わらない。人間の心は30年や40年でそんなに変わるはずがないと思うんです。

 もし、そんなに速いサイクルで人間の心が変わるのであれば、多分江戸時代の人間と我々では全く別の人類になっていただろうし、まして平安時代だとか奈良時代だったら、全く別種の人間になっているはずなのに、書いているものや何か、例えば枕草子だとか源氏物語とか、通じるものはあるわけですね。人間のありようみたいなものはそんなに変わるはずがないということを、私なんかとは世代が違う若者たちと会っていても感じるわけです。むしろ私自身は、大人と非常に距離をとっていた子どもたちと接することによって、彼らの、彼女らの気持ちの柔軟さの方を強く感じるんですね。

 例えば、自分自身が人との関係で傷ついて、不信感を持ってるとすれば、だれが来ても信じない。ちょっとぐらい声をかけようと思っても、この人は何か下心があるんじゃないかみたいなことを思ったりして、なかなか寄せつけないと思うんですね。でも子どもたちは、全く関係のない大人であった人間が向かい合ったときに、最初は警戒するかもしれないけれども、そのメッセージというものが、自分を否定するものじゃない、利用するものじゃないということがわかったときには、開いていってくれるんですね。私自身は、その子どもたちの柔軟な心に支えられて活動を続けてきたという面があるんです。

 具体的には、学校制度の中に入って、子どもたちのいろいろな悩みごと、苦しみ、そういったものを支える。それから子どもたちだけではなく、家族を支えるというスタイルでやっていたんですね。家庭の中に入っていって、特に家に引きこもっている子どもたちに、こちらから出かけていって接触するというようなことをしました。そういった中で、本当に子どもたちが受け入れてくれたという感覚があるので、私自身は、子どものことを非常に悪しざまに言うというか、今の風潮に対しては非常に腹が立つんですね。悪く言う人たちに対しては、あなたたちは本当に子どもたちにきちんと向かい合ったことがあるのですかということを言いたい。向かい合ったとすれば、そんな無責任な、否定的な決めつけというものはできないんじゃないかと思うんですね。

 そういうことを思うわけですが、子どもたちの置かれている今の時代の難しさというのは現実にありまして、かつてが決してバラ色ではなかったけれども、今もバラ色じゃない。今もなかなか厳しい時代であるわけですが、かつての厳しさというのは、例えば貧困とか病気が主体だったと思いますが、今では、日本の社会の中では、貧困とか病気という面に関してはかなり軽くなったと思うんですね。ところが違った難しさというのがあるわけで、その難しさの根元というのは、ここ数十年来何かというと、学校教育の問題じゃないかと思うんですね。


【学校と子どもとのギャップが開いて来た】
 日本では、学校制度というのを今から120数年前に導入したわけですけれども、明治以来、その学校制度というものが非常にうまく機能したわけですね。特に国民に知識を授けるという目的、当時は知識を得る手段というのはなかなかなかったものですから、学校というところをつくって、専門的な知識を持った人たちが子どもに知識を授けるということをやってきたわけです。それが非常に国民のニーズと合致したらしくて、機能したわけです。それで、非常に短い期間の中で世界でも有数の識字率といったものを達成して、しかも、産業社会の近代化にも非常に貢献してきたわけですね。だから、教育に力を入れることは国が豊になるんだという思いというか、自信というものを私たち国民の中にいっぱい植えつけたと思うんですね。だから教育にどんどん力を入れてきたわけです。

 教育に非常に力を入れてきたんだけれども、教育というのは知育といってもいいんですね。知識を授けるということ。知識を授けるということが大体行き渡ってきた1970年代ぐらいになってきますと、知識を得る手段を学校以外にもつくり出し始めてきたわけですね。一番端的なのは、学校に似たようなものを地域の中につくった。それは学習塾と言われるものですけれども、学校で勉強するだけでは足りないから、とにかく地域の中に塾というものをつくって、そこでも勉強させるということをした。子どもたちは、学校だけで勉強していたのが塾でも勉強できるようになったし、場合によっては、塾の先生の方が学校の先生より教え方がうまいなんてことになって、学校の知的占有権、知識を授ける地位というのが少し軽くなってしまったわけですね。

 さらに言えば、マスメディアがすごく発達しました。新聞とかラジオとかテレビとか、そういったものが知識をいっぱい授けてくれるわけです。家にいて、スイッチをひねればいろいろな情報を伝えてくれる。そうすると、学校に依存する度合いが子どもたちの中では非常に軽くなってきているわけですね。ところが大人の方は、知識さえ授ければということで、どんどん知識を詰め込むということをやってきたわけです。その辺のギャップが70年代の終わりごろ、今から25〜26年ぐらい前から少し開いてきた。

 学校と子どもの開きがちょっと出てきたというサインを一番はっきりあらわしたのが、校内暴力と言われる現象だと思うんです。1970年代の終わりぐらいから急に子どもたちが学校の中で暴れ始めた。教師をなぐったり、窓ガラスを割ったり、バイクで校舎の中を走り回るというようなことを起こし始めたわけです。そのときに大人たちは今と同じように、「子どもたちはどうしたんだ」「しつけがなってないんじゃないか」みたいなことを言ったりした。だから、もっとびしびし取り締まらなくてはいけないということで、暴力を力で抑えたんですね。学校の中に警察官を導入したり、生活指導の教師に、体育系の非常に体力のある教師を担当させて力で抑えつける。さらには、校則なんかを非常に厳しくした。「管理の愛知」なんて言われますけれども、愛知県は特になかなか厳しい管理体制を敷いたわけで、それで子どもたちをがんじがらめにしばりつけた。一応校内暴力のピークは鎮静化したわけですけれども、子どもたち自身のニーズ、要するに今の教育というものの状況、教育というものが自分たちのニーズに合っていない、または、大人が教育ばかり押しつけるということに対する違和感みたいなものに対しては、大人は全然気がつかなかったわけです。だから、子どもたちの不満というのは全然解消されてないですから、ほかの形で出たわけですね。校内暴力のピークが下がると同時に、いじめという現象が起きたわけです。1986年ぐらいから急にふえた。この愛知県でも非常に痛ましい事件がありましたけれども、いじめがどんどんふえたわけですね。

 いじめが出てくると、「いじめることはいけない」とか、「いじめることは人間として許されないことだ」というような感情論ばかり言って、なぜ子どもたちがいじめをするかということ、しかも、日本じゅうでそういうことが起きるのかということに関しては、大人たちは考えようとはしなかった。現象面だけを見たわけですね。それで対策をいっぱい打ち出した。いじめは減ってないけれども、ピークよりも取りざたされることは少なくなったわけで、そうすると、いじめの嵐みたいなものが少し吹き去ったときに、まだ子どもたちの不満というのは解消されてないですから、今度は授業そのものを抜け出すような子どもたちがいっぱい出てきたわけです。小学校1年生とか2年生、そういうところでも授業から子どもたちが退却するというようなことがある。さらに、1970年代の終わりから、そういう現象と同時に不登校という現象が起きてきて、学校に行かない子どもたちがどんどんふえているんですね。子どもたちの数はこの20年間ぐらいで随分減りました。だけど不登校の子どもたちはどんどんふえています。


【学校の枠組を根本的に変えることが必要】
 私は1986年から、実際に不登校の子どもたちとかかわり始めたんですけれども、当時は3万人以下だったんですね。新聞で非常にふえたということを言われたんですが、昨年は13万人です。子どもたちの数が減っているにもかかわらず、実際の数はもっと多いはずなんですが、とにかく13万人になっているんですね。物すごい数でふえているんですけれども、そういった問題は、すべて学校を舞台にして起きているんですね。校内暴力、いじめ、学級崩壊、不登校。そういう数万とか10万単位の子どもたちが巻き込まれている現象がその場で起きているとすれば、子どもたちだけの責任にすることはできないはずなんですね。その場というものを考えていかなくちゃいけないんだけども、それをいまだにやってないんですね。

 この前教育改革国民会議の報告というものがありまして、きょう参考までに新聞の切り抜きを持ってきたんですけれども、いっぱい書いてあるんですね。その中でやっぱり、子どもたちがおかしいということを盛んに言っているんですね。学校が持っている、子どもたちが安心して過ごす環境としての問題ということには全然触れてないんです。とにかく、子どもたちをもっとびしびししつけなくてはいけないということが非常に強く強調されているんですが、それでは結局問題は全然見えてこないと思うんですね。だから、学校というものの枠組みを根本的に変えていかなくてはいけない。地域との連携とか、関係を強くしようと言われていますけれども、基本的な、120数年前に学校制度を導入したときの枠組みと同じ枠組みで学校というのは運営されているわけです。先生が壇上に立って、子どもたちに教えて、点数をつけて、評価してという形自体変わってないんですね。それが120数年前は多分すごくうまく機能したと思うんです。それが今合わなくなっている。

 要するに、今、コンピューターだとかメディアが情報というものをいっぱい、あちこちからもたらしてくれるわけですから、学校に知育というものをそんなに頼らなくてもいい時代になっているんですね。私自身、不登校の子どもたち、学校に全然行かなかった子どもたちとつき合っていたわけですけれども、学校にずっと行っていると、3日間休んだらもう受験戦争におくれてしまうとか、まして1年間だったら、学歴社会の中で生きていけないみたいな感覚が一般の人にあるわけですが、そんなことは全然ないんですね。学校に行ってなかった子たちが、例えば3年、4年行ってなかった子たちが、学校に毎日行ってもなかなか行けないと言われているような大学に入ってしまったり、また、学歴にこだわらないで仕事についたりとか、物すごく自由にいろいろな生き方をしているんですね。それがハンディーキャップにならないということははっきりしてるんですけれども、やっぱり学校を維持している人たちは、知識をつけるということは非常に大事だということを思っているんですね。

 それって120数年前のファッションだと思うんですね。今120数年前のファッションをしている子どもたちは一人もいないです。全然違うスタイル。音楽にしても食べ物にしても全然違うわけなんです。学校というものは、120年前のファッションと大体同じ形でやられているんです。それが今の子どもたちに合うはずがない。その120年前のファッションの根幹が知育だと思うんですね。知識というのはほかでいっぱい得られる。学校へ行ってなくても、結構勉強ができたりするという現実があるんですね。そういうことを多くの人たちが認識してないわけです。

 だから、学校の枠組みを基本的に変えるということはどういうことか。今のファッションに合った学校にしていかなくてはいけないということだと思うんです。それは多くの人が思っているような知育ではなく、多分居場所的な機能だと思うんですね。今の時代の中で、人と気持ちを通じ合わせることはできにくいということを言いましたけれども、非常に難しいです。子ども同士の関係も難しい。子どもと教師の関係も難しい。それから教師と家庭の関係なんかも難しい。全部分断されてしまっている。だから、それが今の私たちの生きづらさというものになっていると思うんですね。子どもたちだけではなく、大人も。だとすれば、お互い同士が出会う機会といったものを今の時代は必要としていると思うんです。かつてのように自然に大家族の中で、また、同じ地域の中に長年同じ人たちが暮らし合ってつくっていたネットワークみたいなものは持ちにくいですから、そういったものをどうやってつくっていくかということが今の課題だと思うんです。

 それを考えたときに、学校というのは非常にいい場所なんですね。とりあえず子どもたちが数百単位で集まります。小さいところでは数十というところもありますけれども、とにかく大勢の子どもたちが集まる。そこに出会いのチャンスがあるわけですよね。子どもたちだけではなく、子どもたちが所属している家族、家族も子どもたちを通して出会うチャンスがある。なのに今まで学校というのは、子ども同士を競争させたり何かして、関係を分断するような形で運営してきたんですね。だから、子どもたちが出会う、学校を通して家族同士が出会う、それから地域と出会う、そういうふうに機能を変えていくとすれば、学校というのはこれから可能性があるわけですけれども、知識を授けるということだけにこだわっていると、学校というところは、まだまだ難しいことが続いていくんだと思うんですね。

 学校が難しいというのは、やはり日本だけの現象ではないんですね。私自身、アメリカのいろいろな学校を見てきているんですけれども、いじめはどこの国でもあるし、不登校の問題は日本だけの問題ではなくっているし、いろいろな問題を抱えている。そういう問題に直面したときに、いろいろな模索をしている国々があるわけです。特にアメリカあたりですと、既成の学校だけじゃなくて、いろいろなニーズのある子たちがいるんですね。例えば、集中的にこの科目について勉強したいという子がいたり、向こうでは妊娠するハイスクールの生徒もいますから、そういう子たちが勉強できるような学校を別につくったり、芸術的なことを中心にやりたいという子の学校をつくったりとか、そういう小規模の学校、オルタナティブ・スクールといえるものをつくったりしています。最近では、チャーター・スクールといわれるような形で、非常に独創的な学校というものがつくられ始めて、それがすごい勢いで広がっています。それから、学校自体には毎日通わないで、家庭で学習するホーム・スクールといったものが物すごい勢いで広がっているんですね。それを公的機関が認知しているんです。だからいろいろなオプションがあるんですね。その中で、子どもたちが自分に合ったものを選べるような形を模索し始めている。


【問題の原因を子どもの側に求めるのではなく、状況を変えていくという発想を】
 そういうふうに、従来一つあった学校の枠組みというものを、いろいろな形で変えるという模索をしているわけです。ところが日本の場合は、学校を改革するといっても、従来の学校はそのままなんですね。その中で、わかりやすい授業だとか、スクールカウンセラーを入れるとか、そういうコップの中でいろいろ改革を模索しているんだけど、それじゃだめだろうなと思うんです。やはり子どもたちにとって一番つらいのは、一つしかない学校に全部適応しなさいということだと思うんですね。いろいろ多様な子どもたちがいる。価値観が多様化したと言われるのに、皆が同じ学校に所属しなくてはいけない。同じ行動パターン、同じ服装を強要されたりするわけですけれども、それでは子どもたちの息苦しさは拭えないということになるので、もうちょっと根本的な枠組みを変えていくということが必要なんだろうと思うんですね。そこができるかできないかということが問われていると思います。

 大枠のところではそうなんですけど、実際の、例えば子どもたちのそういうニーズのずれということに関して言えば、日常の場面でも、やっぱり大人が勝手に、例えば学校改革というものをしていく、日常の行動に対しても、勝手に大人が、こうであるということを子どもに押しつける。それがうまく機能してないということははっきりしていると思うんですね。例えば、私がかかわってきた不登校の問題でも、日本の社会の中で、問題を解決するという名目でいろいろな対策がとられてきました。だけども、先ほど言いましたように数はどんどんふえ続けている。要するに対策が効果を発揮していないんです。例えば、教育相談を学校の中で充実しようという話があったり、それから、適応指導教室というものがつくられたりした。これは90年代の初めごろですけれども。学校に行ってない子たちに適応指導教室をつくろうということをやったり、それから今、スクールカウンセラー制度が取り入れられようとしています。そのほかにも、本当にいろいろな施策というものが実施されてきて、膨大な金額が投入されています。スクールカウンセラー制度は33億円以上、ここのところ毎年投入されているんです。

 それはなぜかというと、これまでずっと問題の原因を子どもたちの側だけに求めているんですね。あなたたちが間違っているから、大人が正しくしてやろうという感じ。それは、例えば治療という言葉であったり、指導という言葉であったり、場合によったら強制するとか、そういう言葉を使ったりする。とにかく、あなたたちの方が間違っているということなんです。そういう間違った存在として子どもたちが向かわれたときに、「あなたは間違っているんですから、私が助けてあげましょう」みたいなことを言われたとしても、子どもたちがそれを受け入れるはずがないんですね。やはり大事なことは、そういう問題が起きている状況をとらえて、状況の方を変えていくという発想が、今は非常に求められているのではないかと思うんですね。

 私たちはどうしても、問題があると個人の責任にしたがりますね。あなたが悪いんだからとか、あなたさえ変わればいいとか、発想を変えなさいとか、絶えず個人の中に問題というものを求めていくんですけれども、でも実際は、私たちの抱えている問題というのは、個人は関係ないわけではないですけれども、個人と個人を取り巻くいろいろな要素、例えば家族であったり、学校であったり、地域社会であったり、その関係の中で生じてくるわけですね。だから不登校という問題を考えたときに、個人の中に問題があると考える人は、子どもを治しましょうと言ってしまうわけですけれども、学校というものにも問題があって、子どもと折り合いがうまくいかないわけですから、だから、問題というのは関係にあるわけですよね。その関係をどういうふうに調整するか。もしかしたら子どもじゃなくて、学校が変わることの方が大事なことかもしれない。親子関係でもそうです。子どもが言うこと聞かないからみたいなことを親はしょっちゅう言いますけれども、親の方が間違っている可能性があるということも考えていかなくてはいけないんですね。問題というのは、絶えずお互いというものを見ていかなくてはいけないということだと思うんですね。


【子どもの時に感じた理不尽さを、取り戻してみることが必要】
 非常にわかりやすい例でいいますと、私がやっている活動の場合でも、例えば子どもが、「私は世の中で独りぼっちで、だれも私のことを理解してくれない。だれか私のことを一人でも理解してほしい」なんていうことで悩み苦しんでいる場合は、本人に会って、本人の気持ちをよく受け入れるということが大事ですよね。個人に焦点を当てるということは大事かもしれない。だけどその悩みの源が、例えば家族から来ている場合があったりすると思います。家に帰ると親が、「学校に行ってないお前なんか絶対に許せない」とか、「このままじゃ人間として生きていけない。家の子じゃない」とか、そういうことを言ったり、場合によっては暴力をふるったりするようなことがあったりする。子どもが悩んでいる場合に、話を一生懸命聞いて、話を聞いたときは落ち着くかもしれないけど、家に帰ったときには、また子どもは攻められるわけです。苦しみがまた出てくるわけですね。それでまたソーシャルワーカーのところに行って一生懸命話したとしても、どうどうめぐりなんですね。そういう場合は家族に会って、子どもの苦しみといったものを理解してくれるように、むしろ親に働きかけた方がいいということはありますよね。親が理解してくれれば子どもの苦しみというのは減っていく。焦点はむしろ、本人よりも親であったりするということがあるわけです。

 それから、親子関係がそれで調整してうまくいったとする。だけど、学校の先生が時々来て、「学校にそろそろ来ないと、将来お先真っ暗だぞ」とか、「卒業もちょっと難しいぞ」とか、「生きていく力がないんじゃないか」とか、いろいろ否定的なことを言われて、親にも「お宅の子育てがちょっと甘過ぎるんじゃないですか」みたいなことを言われたりすると、先生が来るたびに落ち込んだりするわけです。せっかく親子関係がまあまあうまくいったのに、先生が来るたびに落ち込む。そういう場合に、家族で何とかしてこれを乗り越えていきましょうというよりも、その先生に会って、そういうやり方が家族をどういうふうに傷つけるか、プレッシャーをかけるかということを理解してほしいということを伝えた方がいいわけですね。焦点はむしろ学校であったりする。

 さらに言えば、不登校で非常に苦しんでいるときに、精神科のクリニックに行ったりすると、精神科のクリニックでは、薬をぽんと与えたりするようなことがありますね。薬が一時的に効果を発揮する。「自殺したい。自殺したい」と言っていたのが、薬を飲んだことによって少し落ち着いて言わなくなったりすることがあるんだけれども、いったん薬をもらうと、ずっと薬を2週間に1回ずつぐらい処方されたりするわけですね。親子関係も学校との調整もうまくいったのに、薬を飲んでいることによって、体がだるくて意欲がわかないなんていうことがあったりするわけです。そういう場合は、本人にいろいろ言うよりも、医者に会って交渉した方がいいわけですね。投薬ということについて、もうしない方がいいんじゃないかということを言う。だから、個人だけがそうしようということではなくて、その子が少しでも楽にいくための要素というのは外部にあったりするから、そこのところに働きかけをするというのが非常に大事なんですね。大きくは学校のあり方みたいなところまで問いかけていくというような発想をしない限り、いつもいつも、「子どもたちがおかしい」ということをやっている限りでは、子どもたちに受け入れられない。大きく言えば、そういう問題が解消するということにつながらないと思うんですね。

 これはもうずっと、校内暴力のころから私がかかわって、おかしい、おかしいと思いながら発言しているんですけれども、やっぱりトップの方では、子どもがおかしいと言う。また、社会全体もそうだと思うんですけれども、子どもの方がおかしいという見方は変わらないと思うんですね。だから、子どもの側からいろいろと考えてみる。私たちは、かつてすべて子どもだった時代があるわけですから、子どものときに感じた理不尽さとか、居心地の悪さとか、そういったものをもう一度取り戻してみる必要がある。そこからいろいろな問題を考えてみる必要があるんじゃないかと思うんですね。


【子どもの側の事情や理由を考えて、応援を】
 よく、今の子どもたちは学力が低下したと言われますけれども、本当かなと思いますよね。かつての、例えば九九とか何かということから言えば、スピードなんか遅いかもしれない。だけども、パソコンとかそういうものを目の前にしたときは、子どもたちははるかに速いし、知識も持っているんですよね。今の時代に合った情報から言えば、私たちはコンピューターなんか非常に時間がかかります。コンピューター的な知識というものを基準にした場合には、子どもたちは全然低下したわけではなく、むしろ大人よりも高いんですね。中学生ぐらいの年齢の子にコンピューターを教えられる大人というのは余りいないと思うんですね。むしろ子どもたちの方がはるかに知っています。

 それから、今の子どもたちは手先が不器用、雑巾の絞り方も知らないとか言いますけれども、そんなことは当たり前ですよね。だって、雑巾を使う生活がないのに、雑巾の使い方を知らないとか、ナイフの使い方を知らないとか。ナイフなんか全然使わないから使えないのは当たり前の話なんです。だけども、テレビゲームのボタン操作なんか物すごく器用ですよ。今の子たちはスピードすごい速いですからね。手先が不器用になったのではなくて、時代によって出どころが変わってきた。だから一面的に、大人がかつての基準、学力感、器用さというものを数10年前の自分たちが生きた時代の基準でいっても、それは全然当てはまらないので、今の時代なりに判断していくと、子どもたちは結構器用だったりするし、携帯電話のメールの送り方なんか片手ですごいですよね。天才わざじゃないかと思うくらい器用だったりするわけです。

 そういうことから、いわゆるいろいろな問題行動、不登校の分野でも、例えば昼夜逆転とか、そういうことを子どもたちがしたりするんですね。そうすると、医者によってはそれを病気扱いして、睡眠障害という名前を与えて、薬を与えたりするんですけれども、それもやはり、子どもたちの側の事情を全然考えていないんですね。学校に行ってない子で、昼ごろ起きてくる子というのは結構多いんですね。男の子だと半数以上はそういう子が多いんじゃないかと思うんですけども、これは別に、私からすると何も問題じゃないんですね。学校に行ってないのに、毎朝7時に起きて一日を過ごすというのは結構大変なことなんですよね。学校に行きたくなくて休んでいるのに、朝起きると否が応でも学校に向き合わされてしまう。普通だったら制服を着て学校に行く支度をしている時間なのに、自分はまだパジャマを着ているという落ち着かなさがある。それから、テレビをつけると学校のニュースなんか入ってくるし、8時を過ぎると、通学班の子どもたちが学校の話をしながら通っていく。そのたびに落ち着かないんですね。学校の近くだったら、チャイムだとか校内放送が聞こえたりする。そうすると、学校を休んでいるのに、気持ちの中で全然休めない。学校を休んでいない子は、学校を休んでいると普通思われるでしょうけど、気持ちの上では全然休めていないことが多いんですね。むしろ気持ちは学校とべったりくっついている。そういう落ち着かなさを避けるためには、その時間寝ている方がいいんですよね。寝ていて、夕方ぐらいになると少し気持ちが楽になってきます。深夜になると学校的な要素が全然なくなるんですよ。それで、だれも、家族さえも嫌な顔とかしないから、干渉する人がいないですから、自分の好きなことを考えたり、好きなことをしたりする。非常に気持ちが安らぐ時間なんですね。だから昼夜逆転というのは、自分の気持ちを安定させるための自然な行為というか、非常に大事な行為だと思うんですね。

 その安心する行為をずっと続けることによって、自信とか確信、安心感というのが定着していきますから、それから精神的な安定に向かっていくと思うんですけれども、大人は、人間というのは午前中に起きて、夜寝るものだという価値観にすごくとらわれていますから、昼夜逆転している子を見ていると病気扱いしたり、親が非常に悩んだりしたりするわけです。それは、子どもの側の事情とか理由を全然考えてないということだと思うんです。その事情とか理由をきちんと押さえて、それを応援することができれば、子どもたちは自分を否定することはないんです。昼夜逆転している子を否定的に見るということは、学校に行ってない自分を否定されて、昼夜逆転している自分を否定されるということは二重に否定されて、どんどん自信をなくしていくんですね。だから、昼夜逆転していることは君にとっては必要なことなんだというメッセージを送り続ければ、子どもたちはその部分だけでも安心できます。それで、さっき言ったように、自分のやりたいこと、好きなことを見つければ、自然に昼起きて行動するようになるんですね。

 私は昼夜逆転の子どもと、数十人単位でつき合ってきたわけですけれども、昼夜逆転のゆえに人生を過った子は一人もいないですね。それぞれ何か見つけたときには、普通に昼間起きて動くようになる。というのは、やりたいことというのは、やっぱり昼間起きないとないんですよね。だから自然にそうなっていく。だから、自分の精神的な安定をまず確保すること。それから、自分がどうしたいかということを見つけ出していくということだと思うんです。大人というのは形についこだわってしまって、昼夜逆転をまず治さなくてはみたいなことを思ったり、もう本当にとんでもないみたに思って、慌てふためいてしまったりするというようなことになるんですけれども。


【社会性とは】
 よく、学校に行かなかったり引きこもったりすると、社会性がなくなってしまうんじゃないかみたいなことを言ったりします。この社会性というのは、余り考えないで言われているんですね。外に出ていれば、こうやって会場に来たり、私みたいに出かければ社会性があるみたいに思われてしまうんですけれども、本当にそうだろうかと思うんですね。社会性がないと言われる人たちは、社会の中でいっぱいトラブルを起こしているから社会性がないんですよね。だから、社会の中に出ているから社会性がある、家の中にいるから社会性がないという言い方はちょっと違うんじゃないかと思うんですね。

 私自身は、社会性というものを語るのであれば、社会性というのは他人との関係性、要するに信頼関係の問題だと思うんですね。表に出ていても、人のことを信用できなかったり、怒ったり、恨んだりするような関係の中で生きていれば、他人との関係はなかなかうまくいかないですよね。人が親切にしてくれても、これは下心があるんじゃないかとかうるさいとか、そういうふうになってしまう。だけど家の中で、家族がいい状態でその子どもなり若者をきちんとサポートする。あなたにとってこの状態というのは必要な時期なんだというようなメッセージをきちんと伝えて、応援する姿勢があれば、他人との関係、要するに親との信頼関係というのは持ち得るわけですね。その信頼関係というものをベースにして、表に出たときはその信頼関係が広がっていきます。だから、社会性というのは、単に引きこもっているからなくなる、出ているからあるという発想そのものが違うんじゃないかと思います。

 ついでになりますけれども、引きこもりなんて最近よく言われて、テレビでもよく取り上げられますけれども、非常に新しい現象のように言われますよね。でも実際は何も新しい現象ではないんですね。日本では割と伝統的な、人が再生していくための一つのプロセスとしてあったんだと思うんですね。神話の世界って私余り知らないんですけれども、日本の国をつくった天照大神という人は、閉じこもり、引きこもりの元祖ですよね。天の岩戸の中に引きこもって世の中を暗くしてしまったんですね。それで、出てきてもらうために、いろいろな策略を講したりなんかしたわけです。引きこもるということをやった。

 それから、お祭りとか何とかというときには、身を清めるために一時期社会から隔絶して、若者なり人がこもるという行為をしてきたということがあるんですね。それは、人間が再生するための一つの儀式だったわけです。そいうものがあったわけですね。だから、現代の若者たちの引きこもり現象も、その人その人が再生していくための一つの行為だと思うんですね。だけども社会がそれを認めないから、だんだん落ち込んでいって長期化してしまったり、また、表に出るだけの自信をなくしてしまうというようなことがあるので、社会がもう少し緩やかに、そうした青年たちがいるとすれば、その青年たちにとっては、一時期そういうことも必要なんだというメッセージを送ることの方がはるかに大事なんだと思うんですけれども、社会性の幻想といったものに取りつかれてしまっているということがあるんだと思うんですね。


【大人との関係では、子どもは常に不利】
 そういうことをいろいろ考えますと、大人と子どもの関係においては、子どもというのは常に不利なんですよね。負けなんです、どんなことがあっても。昼夜逆転なんかちゃんと理由があるのに、「だめだ」、「病気だ」というふうに言われたりするし、不登校だって、学校の持っているいろいろな抑圧というかプレッシャー、それから学校の合わなさといったものを表明している行為なのに、問題だ問題だというふうにして、一方的に治療の対象にされたりするんです。常に負けなんですね、大人との関係では。

 そういうふうに、何を言っても聞いてもらえない、わかってもらえないという気持ちが子どもの中にずっとあると思うんですね。だから、それが無力化につながっていく。どうせ何も聞いてくれないということで、冷めた感じでいってしまう子どももいれば、無力感みたいなものがいっぱいたまってしまって、どんどんためて、ある日ぽんと爆発するというようなことがあると思うんですね。その爆発した行為が、我々がよく聞く「切れる」という行為だと思うんです。普通の何でもない子が切れるということを言われたりしますけれども、切れるという現象は、子どもたちのおかしさではなくて、それだけ子どもたちの中に、不満とか抑えつけられている感覚といったものがいっぱいたまっているということだと思うんですね。

 では、切れないためにはどうしたらいいかということですけれども、やっぱり子どもたちにきちんと向かい合うということだと思うんですね。大人としての権威を押しつける、力で抑えるということではなく、一人の人間として誠実に向かい合う。子どもたちが言った言葉に対して、きちんとメッセージを返していくということ、それが大事だと思うんですね。それをされないということがやはり不満につながっている。子どもたちの表現の仕方というのはそれほど工夫されていない。だから、今の成人式が合わないというようなときに、きちんと、理路整然と「今の成人式のあり方は」というようなことは言えない。だから携帯電話でしゃべったり、ちょっと騒いだりするというような行為に出てしまうわけですね。そういう行為自体は表現としては適切ではないけども、そのメッセージの中にあるものというのはきちんと取り込む。それに対して我々は、例えば成人式の例で言えば、どういう成人式をしていけばいいのかというのは、子どもたち自身と語ることが大事だと思うんですね。子どもたちに何も聞かないで、大人たちが決めていってしまっている。


【わからないときには子どもに聞く】
 私自身は、相談をするときにはわからないことが結構ありました。何でも知っているわけではないですからね。13〜14歳ぐらいの子どもたちと会っていてもわからないことがいっぱいありました。どうしていいかわからないときには、子どもたちに聞くということを鉄則にしていたんですね。わからないときは、おじさんはこういうふうに思っているんだけど、どうだろうかとか、そうだろうかと。そうすると、きちんと回答をくれるんです。そうじゃありませんとか、そう思いますとか。場合によっては子どもたちもわからないということがあったりするから、わからないときには結論を出さないというか、もうちょっと考えてみようというようなことをやった。やっぱり当事者にきちんと聞くということ。当事者参加なんてことが盛んに言われますけれども、やはり子どもたちが、自分の意見をきちんと聞いてもらえる機会を保証するということが大事だと思うんですね。

 校内暴力が激しいころ、教師に反抗的な子どもたちが多かったので、子どもたちによく、「どの先生だったらいい先生なの」ということを聞いたりしていたんですね。そうすると子どもが、「あいつはいいやつだよ」とか言ったりすることがあったんです。そのいい先生の内容と聞くと、「だってあいつ、おれたちに謝るもん」というようなことを言っていたんですね。謝るということを言っていたんですね。それはやはり、きちんと自分たちを認めている、謝るという行為を通して自分たちを一人の人間として認めているということを感じていたと思うんですね。そういうふうに、人は認められたときには、相手に対して恨みとか、そういったものは持たないですよね、むしろ安心していくわけだから。だから認めてあげるとかと言うことではなくて、一人の対等な人間として接する。たまたま長く生きているかもしれないけれども、何もかも子どもたちより知っているはずはない。さっき言いましたが、コンピューターのことに関しては全然知らないわけですからね。だから子どもたちの方が知っていることもたくさんあるし、子どもたちの方から教えられることもあるんですよ。そういう謙虚な気持ちで大人が向かい合うということ、それがすごく大事なことなんじゃないかと思うんですね。

 もし私が、子どもたちすべてといいつき合いができたわけじゃないけど、まあまあの関係を築けてきたとしたら、その根底にあるのは、私自身が大人として威張った感じで、教えてやるとか鍛えてやるとかという感覚ではなく、一人の人間として、たまたま早く生まれた人間として、でも同じ立場の存在としているというスタンスを崩さなかったこと、それが子どもと私をつなげてきた大きな要素じゃないかと思うんですね。大人に権威がないとか、そういうことを気にする人たちがいますけど、子どもたちは、幾ら大人が威張ってみたり権威性を出してみても、そんなものによっては評価しないと思うんですね。むしろ評価するとすれば、自分をきちんと一人の人間として尊重しているということ。そういうことを感じたときに評価するんだと思うんです。そういったことを考えると、今の社会の中では、子どもたちというのは余りにも不当に、軽く、低く見積もられているんじゃないかと思うんですね。


【困っていると言われている子どもたちが、社会を変えてきた】
 そういうふうに、子どもたちが不当に扱われている厳しい時代なんですけれども、何も変わってないというわけではないと思うんですね。やっぱり変わってきているなという感覚はあるんです、不登校のことにしても何にしても。でも、変えてきたのは大人じゃないということなんですね。変えてきたのは子どもたち自身だと思うんです。子どもたちがいろいろな行動とか発言、発言というのは理路整然とした発言じゃないけど、いろいろうるさいとか何とかいうことも含めて、そういうことによって、世の中というのは変わってきたと思うんですね。

 不登校の世界でも随分変わりました。例えば、中学校をずっと休んでいたら高校へ行けなかったという時代がほんの10数年前までありましたけれど、今は高校へ行けます。3年間全く行ってなくても高校へ行けます。しかも方法は七つか八つぐらいあります。その中で好きなのを選べるということがあるんですね。それから居場所といったもの、私もかかわってますけれども、学校へ行ってなくても行ける場所があります。それは10数年前はほとんどなかったんです。それからフリー・スクールと言われるものがあったり、日本でも家庭で勉強している、ホーム・エデュケーションというホーム・スクールをやっている人たちもふえてきました。それは子どもたちがつくり出しているんですね。スクールカウンセラー制度なんかもそうかもしれません。そういう子どもたちがいるからそういう制度がある。要するに、大人が幾ら、教育改革だ何だと言っても余り変わらないけれども、そういう子どもたちがいることによって社会は変わってきている。

 考えてみれば、日本の社会の中で、困っていると言われている子どもたちが、実は社会を変えているといううがった見方というか、むしろパワーのある存在だということが言えると思うんですね。そこに気づいていく。だとすれば、子どもたちのそういうパワーを、大人がそいでしまわないようなかかわりというか、むやみに、例えば登校拒否をゼロにしろとか、そういうことではなくて、変えていく力があるとすれば、子どもたちが選択肢を持てるような社会が必要なんだなということを考えることが必要であるし、学級崩壊で小さな子どもたちがいろいろ立ち騒いだりするような状況のときは、自分の授業のスタイルとか、また、学校そのもののあり方みたいなことを考える一つのきかっけですよね。だから、問題行動と言われるものは、常に我々に新しいアイデアとかクリエイティブな気持ちというものを与えてくれる現象だと思うんですね。そこのところを大人は取り違えてはいけないんじゃないかと思うんですね。そこから学べば、きっと少しはいい状況、社会というものが出てくるんじゃないかと思うんですね。今、子どもたちが、自分の居場所がないとか、だれからも必要とされていないという感覚が強いとすれば、そこをつくっていくということが必要だと思うんですね。学校に行かないとか引きこもっているとかということじゃなくて、問題なのは、自分がこの世に存在していいのか、もしかして要らないんじゃないか、そういう思いを持っている子どもたちがたくさんいるということだと思うんです。それを少しでも、ああ自分はこの世界に生きていてもいいんだ。自分は必要とされている。愛されているというような感覚を伝えるということ。それが大人に一番必要だと思うんですね。しつけをするとか、そんなことよりも。そのメッセージが余りにも少なすぎると思うんですね。


【お互いが支え合う豊かさを】
 マザー・テレサという人、尊敬している人もたくさんいると思いますが、あの人が言った言葉の中で非常に印象的なのは、「人間にとっての一番の不幸は、誰からも必要とされないと感じるということ」、誰も自分のことなんて必要としてないんだというふうに思うこと、それほど不幸なことはないということだと思うんですね。だから、そういうことを日本の子どもたちに当てはめるならば、本当に不幸な子どもたちが多いということなんですね。そういうメッセージを周りから浴びていない。だめだ、だめだということばかり言われている。気づいた大人たちは一人でも、一回でも多く、「あなたは私にとって必要なんだ。あなたがそばにいてくれてありがとう」というメッセージをきちんと伝える。そのメッセージでどれだけ子どもたちが勇気づけられるかということを思うんですね。勇気づける根拠というのは、一人一人の持っている命の重さというか、奇跡というか、そういったことに私たちは気がついていく必要があると思うんですね。

 言葉としては、「一人の命は地球より重い」とか言われます。「かけがえのない命を大切に」というようなこともたくさん言われますけれども、実感として、その言葉を子どもたちに向け合っている人たちがどれだけいるかということなんですね。私たちに大事なのは、その実感を持って伝えるということなんですね。考えてみると、本当にたった一つの命が物すごい奇跡に満ちてますよね。たった一つの卵子が精子と結合することによって、細胞分裂を繰り返すわけです。それがわずか10カ月ぐらいの間に、一つの細胞が60兆の細胞にふえるんですよね。私計算機を使って、1秒間にどれくらい細胞分裂のスピードがあるのかということを計ったことがあるんですね。まず割っていったら、1秒間でなんと200万回以上細胞分裂を繰り返しているんですね。そういうスピードで、物すごい勢いで細胞分裂を繰り返してこういう状態になって、言葉をしゃべったりなんかする。心臓でも、毎日エンジンかけたりしなくても自然に収縮して血液を送ったりする。それって物すごい奇跡に満ちたことですよね。だから、どんなに引きこもっていようが、何か問題があるとか、しょうがいないというようなことを大人たちが言っても、どんな存在もその奇跡を瞬間ごとに実現しているんですね。その奇跡にきちんと目を据えていけば、むだな人生だとか、だめな子どもだとか、しょうがない人間なんていないはずなんですね。その人に対する尊敬の念といったものが浮かび上がってくるはずなんです。そういう命に対する尊敬の念といったものを取り戻す。それが私たち大人の課題だと思うんですね。それは他人だけではなく、自分自身もそういう存在だということを認識した上でかかわっていくことが必要だと思うんですね。そういう尊敬の念をもって伝えたときには、本当に子どもが、「自分はこの世にいてもいいんだ。生きていてもいいんだ」という感覚を実感として持てると思うんですね。

 そういうことが必要だと思いながら、自然にはなかなかそういうことはできないものですから、私自身は学校制度の中に入って、そういうメッセージ、特に「自分なんて必要ない」とか、「だれからも愛されてない」と感じている子どもたちに、少なくとも僕は、「おじさんは君のことを大切だと思う。必要だと思う。君は本当にかけがえのない人だ」ということを、身をもって伝えるということをしてきたんですけれども、そういうサポーター的な役割というのは、今、社会の中で本当に必要だと思っているわけです。そういうことが本当にできたときに初めて、豊かな社会だと言えるんだと思うんですね。

 豊かさというのは、物質的な豊かさもそうかもしれないけれども、物質的な豊かさが精神的な豊かさとイコールではないということは、今の社会が非常によくあらわしていると思うんですね。本当に豊かな社会というのは、子どもたちが、私たち自身もそうですが、支えをたくさん持てている。数の問題ではないですけれども、十分な支えをお互いに得ているという社会、それが豊かな社会だと思うんですね。よく、「21世紀、21世紀」と 言われますけれども、もし21世紀が、少しでもいい時代になるとする、そういうことを目指すのであれば、やっぱりお互いが支え合っているという豊かさ、それを実現するということが課題なのかなと私は思います。

 一方的に、長々と自分の思いを話しましたけれども、時間も来ましたので、この辺で終わらせていただきます。どうも御清聴ありがとうございました。





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