「21世紀日本の構想」懇談会 最終報告書を読む 分科会での討論で出た意見が報告書に反映されていない 問題提起の一部がどのように報告書にはめこまれていったか 最後に |
「21世紀日本の構想」懇談会(座長 河合隼雄)がこの1月18日に出した報告書が 首相官邸のホームページ http://www2.kantei.go.jp/jp/21century/index.html に載っています。 英語を第二公用語にするとか、首相の公選を、などということで話題になっていたものです。
「21世紀日本の構想」懇談会は、1999年3月に16名のメンバーで発足し、5月27日からさらに33名のメンバーを加えた49名による5つの分科会が発足しました。
その概要は、このようになっています
分科会 | 主要テーマ |
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第1分科会「世界に生きる日本」 座長:五百旗頭真 |
国際関係の新しい枠組み 日本の国益-国際的役割の再定義 世界の中の日本人 |
第2分科会「豊かさと活力」 座長:小林陽太郎
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企業と社会・組織と個人 新しい「公平」の概念 社会のガバナンスのあり方(自助・自立・自己責任) |
第3分科会「安心とうるおいの生活」 座長:中村桂子
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生涯の充実充足度 多様性と選択肢 人間・自然・科学 |
第4分科会「美しい国土と安全な社会」 座長:川勝平太
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美しい環境 新たな文明の生態系 安全のためのシステム |
第5分科会「日本人の未来」 座長:山崎正和
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世界的人材の育成 教育の基礎の再定義 社会の品格 |
このうち、特に教育の部分に焦点を当てて、読んでみました。
報告書の総論の部分では、教育に関して次のようなことが書いてあります
個人と社会の潜在力を引き出し、先駆性を育て、伸ばす教育を重視するには、教育の均質性と画一性を打破しなければならない。 そのためには広義の教育、つまり人材育成のあり方を根本から問い直すことが不可避である。明治以降の近代化のためにつくられた今の制度の骨格をそのままにし、それに手を加えるといった発想では事足りない。 広義の教育における国の役割は二つある。一つは、主権者や社会の構成員として生活していく上で必要な知識や能力を身につけることを義務づけるものであり、もう一つは、自由な個人が自己実現の手段を身につけることへのサービスである。つまり、「義務として強制する教育」と「サービスとして行う教育」である。 現在の日本の教育では、この二つの教育が混同され、授業内容についていけない子どもには過大な負担を与えながら、それを消化してより広く好奇心を満たしたい子どもには足踏みを強いる結果を招いている。そこで、21世紀にあっては、これまで混同されてきた二つの教育を峻別し、「義務としての教育」は最小限のものとして厳正かつ強力に行う一方、「サービスとしての教育」は市場の役割にゆだね、国はあくまでも間接的な支援を行うことにすべきである。 例えば、初等中等教育では、教育の内容を精選して現在の5分の3程度まで圧縮し、週3日を「義務としての教育」にあて、残りの2日は、「義務としての教育」の修得が十分でない子どもには補習をし、修得した子どもには、学術、芸術、スポーツなどの教養、専門的な職業教育などを自由に選ばせ、国が給付するクーポンで、学校でもそれ以外の民間の機関でも履修できるようにすることが考えられる。 教育は、家庭、地域、学校の三者の共同作業である。しかし、近年、家庭と地域の教育機能が目立って低下してきた。家庭におけるしつけや訓練の重要性を改めて共通認識として持つことが必要である。子どもの教育、行動についての第一義的な責任は保護者にあることを明確にすべきである。 (太字は筆者:以下の引用文で同じ)
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そして、教育の分科会の報告をみると、これに対応するこのような記述があります。
ところで、広義の教育、すなわち人材育成にかかわる国家の機能には、質的に異なるいくつかの側面があることに注意しなければならない。第一に忘れてはならないのは、国家にとって教育とは一つの統治行為だということである。国民を統合し、その利害を調停し、社会の安寧を維持する義務のある国家は、まさにそのことのゆえに国民に対して一定限度の共通の知識、あるいは認識能力を持つことを要求する権利を持つ。共通の言葉や文字を持たない国民に対して、国家は民主的な統治に参加する道を用意することはできない。また、最低限度の計算能力のない国民の利益の公正を保障し、詐欺やその他の犯罪から守ることは困難である。合理的思考力の欠如した国民に対して、暴力や抑圧によらない治安を供与することは不可能である。そうした点から考えると、教育は一面において警察や司法機関などに許された権能に近いものを備え、それを補完する機能を持つと考えられる。 義務教育という言葉が成立して久しいが、この言葉が言外に指しているのは、納税や遵法の義務と並んで、国民が一定の認識能力を身につけることが国家への義務であるということにほかならない。 しかし、同時に教育は一人ひとりの国民にとっては自己実現のための方途であり、社会の統一と秩序のためというよりは、むしろ個人の多様な生き方を追求するための方法でもある。この第二の側面においては、国家の役割はあくまでも自由な個人に対する支援に留まり、近代国家が提供するさまざまなサービスの一つに属すると考えるべきであろう。この側面における教育については、国家は決して強制権を持つべきではないし、また持つことは不可能である。 しかしながら、近代の国家がよい意味での個人主義を奨励しているとすれば、こうした多様な自己実現に間接的に協力することも、国家の機能の一つとして認められてもよい。さらに、このサービスの充実の結果、さまざまな有能な個人が自己実現に成功すれば、それが逆に国家あるいは国民の利益につながることは自明の理である。したがって、先駆的な才能を持つ人々を国家が支援し、そのために財政的な支出を行なうことは、それ自体が国益にかなうものとして国家の機能のうちに数えられるべきであろう。 |
ところがその二面が混同されてきたとあります。そして
もう一つ恐るべきことは、統治がサービスと混同されたことの別の弊害として、子どもたちが教育を国民の義務として理解し、それに畏敬の念を持つことを忘れかけていることである。義務教育はサービスではなく、納税と同じ若き国民の義務であるという観念を復活しない限り、教師の自信も回復されず、昨今さまざまに憂慮される教室の混乱が起こるのも当然だと言える。何よりも急がれるのは、これまで漫然と混同されてきた2つの教育を絶え間ない注意と努力によって截然と分け、区別を意識化していく政策を立てることである。 |
この報告書は、「日本の志」について語ろうというものなのだそうなので、当然のことなのかもしれませんが、個人の権利としての学びではなく、国家の人的資源としての国民を育てるための教育、という観点に立っています。
しかし、この「義務として強制する教育」、「義務教育は若き国民の義務」という考え方は、子どもの学習権を保障する義務が親と国にある、という憲法26条とはあいいれないものではないか、と思います。
戦前の「国家が押しつける義務教育」がもたらしたものへの反省から、『義務としての教育』という考えが廃され、『権利としての教育』が保障されたという経緯を無視するものです。
こういう考えをもとに首相が教育基本法を変えようとしているのだとすると、それは、個人の尊厳を価値の中心に置く憲法を根底からゆるがすことになるのではないでしょうか。
この「若き国民の義務」という表現を見て、ヒトラーユーゲントの歌声を思い起こしてしまうのは考えすぎでしょうか。でも、強制する教育の内容を国家が決める、というのは、大変危険なことと思います。
さらに【週3日を「義務としての教育」にあて、残りの2日は、「義務としての教育」の修得が十分でない子どもには補習をし、修得した子どもには、学術、芸術、スポーツなどの教養、専門的な職業教育などを自由に選ばせ】る、となると、「義務としての教育」を修得しない限り、ほかのことを学ぶことを許されない、ということになりそうです。
これは、それぞれの子どもの、さまざまな興味や能力に応じて学ぶ権利を侵害するものではないでしょうか。
また、いったい誰が、どのようにして「『義務としての教育』の修得が十分でない」と判断するのだろうか、ということも、気になります。
たしかに、人が生きていくために必要な知識というのはあると思います。読み書きとか、計算とか、あるていどの法律の知識とか、自分の権利に関する知識など(後の二つは今の学校ではほとんど教えてくれませんが)。
でも、それは、あくまで個人の権利としてとらえるべきもので、国家に対する義務としてしまってはいけないと思います。そうでないと、権力側にとって都合の悪い知識は個人が自立して生きていく上にいくら必要なものでも「義務としての教育」の中には入らないことになるでしょう。もちろん、その逆も十分考えられます。
この報告書は、日本国にとってなにが利益になるか、というところに立っているので、移民に関する提言にも、ぎょっとするような記述があります。
しかし、グローバル化に積極的に対応し、日本の活力を維持していくためには、21世紀には、多くの外国人が普通に、快適に日本で暮らせる総合的な環境を作ることが不可避である。一言で言えば、外国人が日本に住み、働いてみたいと思うような「移民政策」をつくることである。国内を民族的にも多様化していくことは、日本の知的創造力の幅を広げ、社会の活力と国際競争力を高めることになりうる。 ただ、一気に門戸を開放し、自由に外国人の移住を図るのは望ましくない。日本社会の発展への寄与を期待できる外国人の移住・永住を促進する、より明示的な移住・永住制度を設けるべきである。そして、日本で学び、研究している留学生に対しては、日本の高校・大学・大学院を修了した時点で、自動的に永住権が取得できる優遇策を考えるべきである。 |
役に立つ外国人はどうぞ、そうでない人はこないでね、という考え方。
国民も、ちゃんと必要な知識を身につけた人しか認めないよ、という考え方。
これでは、いわゆる有能でない人、障害者、さまざまな意味で国家にとって役に立たない人は、はじかれてしまうでしょう。
こんなものが『21世紀日本の構想』なのでしょうか?
能力のあるものが他の人をひっぱっていくということの弊害が、20世紀にどれだけ顕わになったことでしょう。それをまた繰り返そうというのでしょうか。
さて、この最終報告書に危機感を持ち、第5分科会の会合の議事要録を読んでみました。
第5分科会 座長 山崎正和* 劇作家・評論家・大阪大学名誉教授 メンバー(50音順)
*は、懇談会発足当時からのメンバー
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1999年5月末から7月末までに4回、会合が開かれ、なかなか活発な討論がなされたようすが伺えます。
ところが、どこにも「統治行為としての教育」とか、「義務教育は、納税と同じ若き国民の義務」などといった言葉はでてきません。
もちろん、そうしたニュアンスを持つ意見はあります。
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というものが、いちばん近いかもしれません。
でも、そのほかに、ほんとうにいろいろな意見がでています。どちらかというと、決まった教育内容を上から押しつけるのではなくて、子どもの側からの要望に答えていくことが大切ではないか、子どものニーズという観点から今までの枠組をを見なおそうではないか、という意識を感じます。
目に付いた意見をいくつかひろいあげてみますと、
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ところが、座長(山崎正和)による主要論点の中間的整理がなされると、突然こうなります。
山崎正和(やまざき・まさかず)
劇作家。評論家。大阪大学名誉教授。東亜大学大学院教授。 1934年生まれ。京都大学文学部卒業。エール大学留学、コロンビア大学客員教授、関西大学教授、大阪大学教授などを歴任。兵庫現代芸術劇場芸術監督も務める。 主著に『山崎正和著作集』全12巻(中央公論社、1982年)、『柔らかい個人主義の誕生』(吉野作造賞受賞、中央公論社、1884年)、『近代の擁護』(PHP研究所、1994年)、『脱亜入洋のすすめ』(TBSブリタニカ、1995年)、『世紀末からの出発』(文芸春秋、1995年)、『文明の構図』(文芸春秋、1997年)、『二十世紀(戯曲)』(中央公論社、1998年)、『大分裂の時代』(中央公論社、1998年)など。 |
第5分科会 「日本人の未来」
主要論点
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どうも、これは4回の会合での議論の内容よりも、小渕首相の挨拶の方に近いように思われます。
いったいなんのために4回も話し合いがなされたのか。どうも、「最初に結論ありき」で、そこに都合のよい言葉をちりばめただけ、という印象が強いのです。
第3回会合の冒頭で、落合恵美子さんから刺激的な問題提起がなされています。
この問題提起と、最終報告書とを比べてみると、最初から枠組を決めた中に、都合のよい言葉だけ文脈から切りとってはめこまれていったようすが見えてきます。
落合恵美子(おちあい・えみこ)
国際日本文化研究センター助教授。京都大学客員助教授。専門は社会学、家族史、歴史人口学。 1958年生まれ。80年東京大学文学部卒業、84年同大学社会学研究科修士号を取得。同志社女子大学専任講師、ケンブリッジ大学客員研究員を経て、94年より現職。 主著に、『近代家族とフェミニズム』(勁草書房、1989年)、『21世紀家族へ』(山川菊栄婦人問題研究奨励賞受賞、有斐閣、1994年)、"JapaneseFamilySysteminTransition"(LTCBInternationalLibraryFoundation,1997)など。 |
(1)
子どもの教育には、家族と学校が大きな役割を果たしてきたが、現代は、従来の子ども観の終焉、家族と学校による教育の終焉ととらえることができるのではないか。 1960年代以降盛んになった家族論のきっかけとなったフィリップ・アリエスは、書「<子供>の誕生」の中で、近代になって大人と子どもが区別されるようになり、<子供>という社会的存在が誕生したとしているが、これは、学校教育の成立や、子どもを産み育てる場としての近代家族の成立と関連している。つまり、<子供>は教育と可愛がりの対象として、歴史的に生まれて来た存在である。そして、その次には若者という存在が誕生した。これは、教育を受ける年齢が延長されるにつれて、子ども時代が延長されるようになったためであり、最近では大学生のほとんどが、自分を子どもだと思うようになっている状況にある(なお、ちなみに、老人の誕生は、現代における定年制の確立の問題と切り離せないと考えられる)。 ヨーロッパの中産階級では、<子供>の誕生により、家事と育児に従事する専業主婦が誕生したのであり、それ以前は、女性も生産労働に従事しなければならなかった。すなわち、男性が生産活動に従事し、女性が家事と育児を担うという性別分業は近代の産物であるといえるのであり、近代社会における母、主婦としての女性の役割の歴史的運命を考えることにより、それと平行的に、子どもの歴史的運命を考えることができるのではないか。 (2) 近代的な性別分業の下で、女性解放(women`sliberation)の動きが出て来たのは1950年代から60年代である。これははじめに病理として表出し、名前のない問題と呼ばれて、主婦の漠然とした不安・不満が問題とされるようになった(日本では70年代に、いわゆるキッチンドリンカーや妻たちの思秋期などとして取り上げられた)。女性解放の運動が、いわゆるウーマンリブとして始まり、それが更にフェミニズム運動として展開される中で、こうした不安・不満の構造が分析されるようになった。そしてその結果、このような女性の不安・不満は、女性が女らしさを求められ、また、男性と比べて二流市民として位置付けられて、シャドウワークとしての家事に従事することとされる、近代的性別分業に対する異議申立てであることが明らかにされた。 しかし、70年代、80年代の日本で顕著に見られたような女性の労働参加により、女性は、家事育児に専業するという近代的な性別分業から脱出することとなった。女性も労働力を売ることにより、市場に参加し、近代社会において自立することになったのである。従来の女性政策は女性を保護しようとする面と、男性との平等を実現しようとする両方の面を持ち、矛盾があったが、現在の女性政策は、保護をはずして、そのかわり男性と平等にするという方向になりつつある。すなわち、脱近代家族の方向が強まりつつあるといえると思う。 (3) 以上の女性解放の問題と平行して、頭の体操的に、子どもの解放(kids`liberation)の問題を考えてみると以下のようになるのではないか。 まず、子どもをめぐる問題は今のところ、子どもの犯罪や拒食、ストレスなどの病理して表出している。そして、このことは、子どもが子どもらしさを求められ、また、選挙権を与えられない非市民として位置付けられて、シャドウワークとしての勉強(女性の場合の家事とちょうど対になる)を求められるという、いわば近代的な子ども役割への異議申立てとして考えられるのではないか。 こうした中で、子どもは売春や情報産業(アメリカではソフトウェア開発でかなりの利益を上げている子どもがいる)、その他のアルバイトなどにより、市場に参加するようになってきている。そして、現在の子ども政策は従来の女性政策と同様に両面性の矛盾を有しており、子どもの権利条約などに見られるように、保護すべき子どもと保護される権利を有する子どもが一緒にされていて、いわば思想的にふらついていて、腰のすわっていない状態だと思う。このようなことに対応するためには、年齢の差別を撤廃し、学則は「法律を遵守する」のみとし(例えば、バイクを運転できる年齢が法律で決まっていればそれでいいのではないか)、また、義務教育の弾力化を進めて、例えばクーポン制を導入することにより9年間の教育を保証しつつ、仕事と学校を行ったり来たりしながら大人になるようにすればよいのではないかと思う。そしてそのために、子どもの労働権を確立し、子どもが働いて収入を得ることを権利として認めて、条件を整備する(例えば、コンビニエンスストアの勤務は1人配置は認めず、複数配置にするなど)ことが必要だと考える。 現代の社会は親が子どもの教育責任をとりすぎているが、このような施策により、親が教育責任から解放されることになる。そして、学校と親に替わる教育のエージェントとして、ビジネスや市場などを考えてゆくことも必要ではないか。 |
子どもの問題を女性解放の問題とパラレルに考えて、子どもに子どもらしさをおしつけることを根本から問いなおそうという提言です。義務教育をもっとゆるやかなものとし、子どもの労働権を確立し、親を教育責任から解放したらどうかというものです。
そういう考えから出てきた「クーポン制」であり、「ビジネスや市場」が教育を部分的に肩代わりすることだったのでした。
「シャドウワークとしての家事」に対応する「シャドウワークとしての勉強」という捉え方も、おもしろいと思います。
ところが、最終報告書には、この「クーポン制」ということと、「学校と親に替わる教育のエージェントとして、ビジネスや市場などを考えていくこと」という言葉のみが、文脈から切り離して使われています。どういう形で使われているか、というと、
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クーポン制は、「義務としての教育」をこなした生徒に限って「サービスとしての教育」を民間機関でも受けられるために与えられるもの。けっして落合さんの提言にあるような、義務教育の枠をゆるやかにし、仕事と学校を行ったりしたりしながら大きくなることを保障するするためのものではないのです。
また、市場の役割、といっても、子どもたちが市場に主体的に参加する、という意味ではなく、サービスとしての教育を私企業にまかせようという意味でのもの。
「教育とかわいがりの対象」という子どもの役割から解放された、自立した子どもが主体的に社会にかかわっていくことをイメージして出されたアイディアが、あくまで教育の対象としての受身の子ども、という枠組みの中にはめこまれていっているのです。
これではまるで意味が反対になってしまいます。
このようにして、10人の人たちのさまざまな意見がばらばらにされ、都合のよい単語のみが用意された文脈の中にはめこまれていって、最終報告書となったように思えます。
その、もともとの意図がどのようなものだったのかは、最終報告書と、さまざまな意見とを比べ合わせるうちに、かなりはっきりと浮かび上がってくるようです。
全体の討議録をみると、こんな発言もあります。
【星野氏】・・・この懇談会全体について申し上げたい。この懇談会は、既存の価値でははかることができない新たな時代に、一つの指針、あるいは考える材料を与えようとしていると思うが、既に、ここで語られることと全く違う感性で自分の人生を考える世代がいる。そうした新たな世代の考え方を縛っていくことを私は望まない。かつて軍国主義が壊れると経済大国を目指す新たな枠ができ、みんなその中に入ってしまった。21世紀の日本の構想はこうだと言い、教育などもそれに余り従い過ぎると、再度、次の新しいものが生まれるのを阻害しかねないという意味において、日本国が余り一色に染まり過ぎることのないよう期待している。 【山本幹事】我々が扱っている課題そのものの性格からいって、枠組みをはめるような結論はあり得ず、国民的に論議すべき議題を提示することに主軸がおかれると思うので、最後の点は、御心配には及ばないのではないか。 |
しかし、これだけ多様な意見の飛び交った会議の報告書が、このような形でまとめられていったことを見ると、心配するな、というほうが無理ではないかと思います。
今年3月には教育改革国民会議なるものが発足するということです。どのようなことを目指しているのか、見えるような気がしませんか。
憲法と教育基本法を読みなおしつつ、この動きから目を離さないようにしようと思います。
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